竹内康浩『謎とき「ハックルベリー・フィンの冒険」』

竹内康浩『謎とき「ハックルベリー・フィンの冒険」』
   「トムソヤーの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」さらに「王子と乞食」などユーモアな喜劇的な小説を書いたマーク・トウェインが、晩年の「人間とは何か」や「不思議な少年」などを読むと、人間不信と利己心の悲観主義に色取られてる矛盾に驚いたものだ。
   竹内氏の本を読んで、謎解き派という氏の綿密な解釈により、その二重人格性が、ハックルベリー・フィンの冒険の底に流れていることを知った。トウェインは死の床でジキルとハイドとつぶやいたという。「王子と乞食」も二重性物語だ。トラウマからユーモアが生まれる。
  竹内氏は、この物語はハックの父の殺人事件が大きな筋になっていると見る。自由を求めて、奴隷のジムを解放州に連れてミシシッピー川を旅するハックの冒険は、「父殺し」の罪から逃亡する物語になる。「罰」から逃亡する物語として読み直せるというのだ。
  竹内氏によれば、トウェンが11歳の時父が死に死体解剖されたのを、のぞき見たトラウマが投影されているという解釈になる。父殺しは未解決殺人事件として葬り去られるが、推理小説を目指していたのに、隠蔽のため破綻した小説ということになるのか。
  トウェンが、ソポクレスの「オイデプス王」を読んでいて、三叉路で実父を殺す場面が、この小説ではミシシッピー川下流の三叉地点に暗示されていると解釈しているのは面白い。
  さらに精神分析学のフロイトとウィーンで接触していて、そのエディプス理論との相似性にも触れている。トウェン小説に多い不気味さと、フロイトの論の相似にも触れられている。「罪」は虚構で「良心」を眠らせて逃れるトウェンの「ごまかし」は、トムソヤーという悪童物語にも「禁止と誘惑」のごまかしとして、喜劇的に描かれている。
  トウェンはドストエスキーとはまるで違うが、罪と罰」の物語としても読めるという竹内氏の解釈は面白かった。(新潮社)