松沢裕作『自由民権運動』

松沢裕作『自由民権運動

 自由民権運動は明治7年「民選議院設立建白書」を板垣退助ら8人が政府に提出して始まり、明治17年の秩父事件で終わる。
 松沢氏の本が面白いのは、戦争後に民主主義運動が起こるというテーゼにある。自由民権運動を「戊辰戦後デモクラシー」として捉え、第一次世界大戦後の大正デモクラシーや、第二次大戦後の「戦後デモクラシー」と同じ視点でみているのだ。
 土佐藩・板垣と、福島三春藩河野広中会津の戦場で一緒に闘ったところから、この本は始まる。近世身分社会の解体したポスト身分社会を、人に任せずに、いかに自分たちで作り上げようとしたかが述べられている。
 この時期、いかに「建白」と「結社」が多かったかも描かれている。
 士族の結社では、立志社、愛国社が有名だが、熊谷の区長・戸長らの七名社も取り上げられ、秋田立志社などは、自由と民主主義に加え、徴兵制の廃止を訴え、会員自らが剣修行をして自己防衛し、「永世禄」で士族になるという問題意識があった。実に多様なのだ。
 松沢氏は国会開設が権力側から先取りされたという。政府は、自由民権の建白を先取りして利用し、運動そのものを滅ぼしていくのだ。
 国会開設願望書の受付を拒否された自由民権派は「私立国会」や「私擬憲法」の方向を模索する。だが、政治権力で「過半数」に至らず挫折していく。
 もし、自由民権運動が成熟していたら、日本近代は大きく変わっていたと思う。「複数の国会、複数の憲法」など世界でも新しい社会国家が、西欧啓蒙と異なるかたちで出て来たかも知れない。
 国会も憲法も政府に先回りされ、おまけに謀略や資金難という問題もあって、民権運動は「激化」していく。運動が暴力化し、秋田事件、名古屋事件、加波山事件と次々とテロ行為を繰り返す。最後に軍隊まで出動した秩父事件は、やはり「民権と貧困」が結びついた反乱として革命寸前にまで至っていたと思う。だがそのとき、自由党は解党を決議していた。
 その後の道は、日本流の財政融資による公共事業政策など「経済成長路線」であり、星享、原敬池田勇人の道だった。(岩波新書