トルストイ『セヴストーボリ』

トルストイ『セヴストーポリ』
   ロシアのクリミア併合と、ウクライナとの内戦の報道をニュ−スで知ったとき、私は1853年のクリミア戦争を想起した。トルコ・英仏連合軍とロシア帝国が凄惨な攻防戦を数ヶ月戦った近代帝国戦争が、クリミア戦争だった。トルストイは、砲兵将校として26歳の時この攻防戦を戦った。その戦争文学が『セヴストーポリ』である。
  ここには、第一次、第二次世界大戦まで続く近代戦争の砲撃戦、塹壕戦、白兵戦が描かれている。この小説には、『戦争と平和』の大作の原体験が詰まっている。セヴストーポリに着任した青年将校が、激しい砲弾の中に次々片足や片腕をもがれた兵士が呻く看護所を訪れる描写から始まっている。
  そういえば、ナイチンゲールが看護活動をしたのもこの戦争からだった。ヘミングウエイ『武器よさらば』のような描き方とも共通性がある。
  将校達の虚栄や、名誉心、出世欲なども良く描かれている。臆病と孤独の心理も、塹壕の中の葛藤として描かれている。近代戦争の進歩した武器による戦争が、いかに悲惨な戦争になるかを、19世紀のトルストイは見抜いていた。
  主人公の将校が戦死していく場面は、『戦争と平和』の戦死場面と共通性があると思った。数多くの死体の存在。塹壕から血だらけの死体を投げ捨てる。コゼリッォーフ兄弟の戦死は痛ましく描かれている。
  祖国愛も述べられているが、それほど強くは書かれていない。むなしさから来る「反戦意識」はあるが、非暴力・非戦の晩年のトルストイよりも弱い。宗教的な神秘思想は、かいま見られるが。人間は、トルストイの時代から、戦争の悲惨・陰惨さを知りながら、戦争をやめていない。
  今後も戦争小説が書かれ続けていくだろう。核戦争で絶滅するまで。トルストイが、近代戦争小説の先駆けだったのである。(岩波文庫、中村白葉訳)