大江健三郎『晩年様式集』

大江健三郎『晩年様式集』

 
 この大江氏の小説の最後に「形見の歌」があり、感動させられた。70歳のとき初孫をみて「この子の生きてゆく歳月は、その苛酷さにおいて 私の七十年を超えるだろう」で始まり、「否定性の確立とは、なまなかの希望に対してはもとより、いかなる絶望にも同調せぬことだ」と続き、最後は「私は生き直すことが出来ない。しかし 私らは生き直すことができる」で終わる。
  大江氏の小説は、円環のような「入れ子構造」になっている。大江氏がかって書いた小説が、小説の中にたびたび登場する。その再考が深められていく。七十八歳の老作家とリウマチ性多発筋痛症で倒れる妻、五十歳になろうとする知的障害をもつ作曲家でもある息子、繊細で優しく鬱になりやすい娘という家庭内の小説だが、「私小説」ではない。大江氏が息子が誕生してから書き続けてきた仮構の「場所の物語」であり、30年ほど前から読んできた読者は、勝手知った家族の歴史を共に生きてきたような錯覚を持つ。らせん状に深まっていく連続大河小説なのだ。
 『晩年様式集』は、三つのカタストロフィー(破滅的災危)と、そこからの再生の希望物語だと思う。
  一つは、大地震福島原発事故によるカタストロフー。老作家の故郷の四国の森に避難した息子と娘は、近くに伊方原原発があり再稼働と事故時の放射能の不安がある。老作家は未来の世代のため「原発ゼロ」と「再稼働反対」のデモや運動に取り組む。二つは小説の登場人物たちのカタストロフィー。小説に書かれた家族が、作家の書く小説に異議を唱えて自立を要求する「小説的カタストロフィー」に対して、彼らが語る別の物語が挿入されていく。登場人物たちの小説内の参画。三つ目は、死者たちのカタストロフィー。事故か殺人か不明の作家の友人ギー兄さんや、飛び降り自殺といわれる妻の兄の映画監督の死についての真相と、死者への尊厳的回復がある。
  この老作家は、父の水死で少年時代溺れ死ぬ自殺を図つたり、知的障害の息子が誕生したとき自死の瀬戸際に入り込む。大江氏の小説は「死」や「死者」の苦悩と、その瀬戸際でいかに生き延びていくかの日常の「危機の文学」だった。だが、この『晩年様式集』では、死者たちとの親密なコミュニオンや友愛さえ感じられて、晩年の思想を感じる。(講談社