ガワンデ『死すべき定め』

アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』

 私はいま終末期ガン患者で、医薬用麻薬で緩和ケアをおこなっている。だから米国の外科医ガワンデ氏の終末期ガン患者の最後を、いかに「豊かな死」を迎えるかを描く迫真迫る文章であっても、あまり読みたくなかった。読んでみると最後まで涙は止まらなかったが、読んだ後は爽快感があった。
 医学の発展で、人間は寿命が次第に伸びてきている。同時に「死」という有限性も延長し「新しき終末期」が始まっている。
 ガワンデ氏は、それを患者・医者・家族・介護(ホスピス者)の4者の葛藤として描いていく。「ニョーヨーカー」誌にしばしば医学文章を書いているだけあって、ストーリーを構築するうまさも抜群である。
 緩やかな拷問のような治療を、医者・患者・家族がいかに「豊かな死」に変えていくか、その苦闘が、ガワンデ氏の病院患者や、近所や友達、親戚の各症例別に、見事な文章で書かれ、感動的である。
 ともかく「選択」の連続である。一歩間違えば死にいたるか、苦痛の連鎖になる。助からない限界に「勇気」をもって立ち向かっていく行為は、凡人を英雄にする。「敗北する英雄」に。
 最後の方は、ガワンデ氏とガンを患う実父との「共闘」による闘病記であり、涙がとまらなかった。親子ともに医者だから、父も自分の症状はよくわかるのだが、それまで冷静だった父さえも最後は絶叫の日々だった。
 死んだ後インド出身だった父の骨を、ヒンズー教徒でもないガワンデ氏が散骨する場面は、人間の「限界性」とはなにかを考えさせる。(みすず書房、原井宏明)

岩元厳『現代アメリカ文学講義』

岩元巌『現代アメリカ文学講義』

 80歳を過ぎ、50年以上アメリカの文学を研究し、翻訳してきた岩元氏の本を読むと、本当に米文学が好きだと思う。
 岩元氏は若きアメリカ留学時代にマラマッドやアップダイクにめぐり合い、ジョン・バースに行き着く。20世紀アメリカ文学の主流を抑えているから面白い。
 死の直前の1985年にマラマッドが書き始めた長編小説をフィリップ・ロスに朗読する姿は感動的だ。岩元氏がマラマッドに会ったとき、貧しい食料品店を守り20年以上「より良い生活」を望み挫折する主人公を、「凡庸な」人間といったら、それをマラマッドは訂正し、「普通の」人間であって「限界」をもつが「凡庸」ではない、といったという。
 マラマッドは普通の貧しい移民の「現実」と「幻想・夢」の食い違いを描き出す。カフカに似た自己戯画化だという指摘もいい。滑稽な生活から「普通の生活」が浮き彫りになる。
 レイモンド・カ−ヴァー論も面白い。日常的物事を異常なものに移し変える才能という。「小さな物語」時代の「作られた狂気」がカーヴァーにはある。
 晩年の短編「使い」は、カーヴァーが尊敬する作家チェーホフの死の直前を描いたものだが、その悲劇性より、妻と主治医が飲んだシャンペンのコルクを床から、二人に気づかれずに拾うボーイの視点が細かく書かれる。そのグロテスクさが、奇妙なカーヴァーの小説の味をつくりだしている。
 私は岩元氏の本を読んで2点を考えた。一つはアメリカ文学ではなぜこんなに短編小説が多く、傑作が多いのかである。長編を書いたヘミングウェイ、フォークナー、メェヴィル、ドライザー、ヘンリー・ジェイムスもいるが、彼らも短編を多く書き傑作が多い。
 第二点は、アメリカ・リアリズムは、リサイクルされるが、現実が先に行き、追いつかないため、幻想力がはいってくる。
 とくに「戦争小説」ではオブライエンをはじめベトナム戦争の「現実」が、すでに先に行き「幻想」になってしまうのだ。ジョン・バース「びっくりハウスの迷子」のように現実と幻想の迷路をさまようことになる。(彩流社

高良勉編『山之口獏詩集』

高良勉編『山之口獏詩集』

 山之口は沖縄の詩人だが、妻は茨城、娘は東京の「多国籍詩人」だ。復帰以前の詩「つかっている言葉 それは日本語で つかっている金 それはドルなのだ 日本みたいで そうでもないみたいな あめりかみたいで そうでもないみたいな つかみどころのない島なのだ」
 「守礼の門のない沖縄 崇光寺のない沖縄 がじまるの木のない沖縄 (中略)どうやら沖縄が生きのびたところは 不沈母艦沖縄だ いま八〇万のみじめな生命達が 甲板の片隅に追いつめられていて 鉄やコンクリートの上では 米を作るてだてもなく 死を与えろと叫んでいるのだ」
 山之口の詩では、日本語と沖縄語が相互に尊重されている。沖縄の歌と踊りのリズムが生かされる。戦後に34年ぶりに帰郷し「島の土を踏んだとたんに ガンジューイとあいさつしたところ はいおかげさまで元気ですとか言って 島の人は日本語で来たのだ」
 妻の実家のある茨城に戦中疎開し、茨城弁の詩もつくっている。そのため何十回も推敲を重ねて詩を完成させたという。「利根川」「常磐線風景」「土地3」茨城時代の傑作だ。
 山之口の詩は、底辺である地表の視点から書かれている。「座布団」は地表の視点から目を離さない。私が好きな詩は「ねずみ」である。道路の中央に盛り上がり生きていたねずみが平たくなっていく。車輪が滑ってきてアイロンでのばしたように、ひらたくなる。「ある日 往来に出て見ると ひらたい物が一枚 陽にたたかれて反っていた」関東大震災東京大空襲、広島・長崎原爆投下を思う。
 ユーモアも多く山之口の詩には盛り込まれている、それが諷刺にまで強まる。
 「鮪に鰯」では、鮪の刺身を食べたいと妻が言う。死んで良ければ勝手に食えと夫はいう。みんな鮪だ、「鮪は原爆を憎み 水爆にはまた脅やかされて 腹立ちまぎれに現代を生きているのだ」ビキニの灰をかぶったマグロ。いい詩だと思う。解説の高良氏の文章もなかなか光っている。(岩波文庫) 
        

松沢裕作『自由民権運動』

松沢裕作『自由民権運動

 自由民権運動は明治7年「民選議院設立建白書」を板垣退助ら8人が政府に提出して始まり、明治17年の秩父事件で終わる。
 松沢氏の本が面白いのは、戦争後に民主主義運動が起こるというテーゼにある。自由民権運動を「戊辰戦後デモクラシー」として捉え、第一次世界大戦後の大正デモクラシーや、第二次大戦後の「戦後デモクラシー」と同じ視点でみているのだ。
 土佐藩・板垣と、福島三春藩河野広中会津の戦場で一緒に闘ったところから、この本は始まる。近世身分社会の解体したポスト身分社会を、人に任せずに、いかに自分たちで作り上げようとしたかが述べられている。
 この時期、いかに「建白」と「結社」が多かったかも描かれている。
 士族の結社では、立志社、愛国社が有名だが、熊谷の区長・戸長らの七名社も取り上げられ、秋田立志社などは、自由と民主主義に加え、徴兵制の廃止を訴え、会員自らが剣修行をして自己防衛し、「永世禄」で士族になるという問題意識があった。実に多様なのだ。
 松沢氏は国会開設が権力側から先取りされたという。政府は、自由民権の建白を先取りして利用し、運動そのものを滅ぼしていくのだ。
 国会開設願望書の受付を拒否された自由民権派は「私立国会」や「私擬憲法」の方向を模索する。だが、政治権力で「過半数」に至らず挫折していく。
 もし、自由民権運動が成熟していたら、日本近代は大きく変わっていたと思う。「複数の国会、複数の憲法」など世界でも新しい社会国家が、西欧啓蒙と異なるかたちで出て来たかも知れない。
 国会も憲法も政府に先回りされ、おまけに謀略や資金難という問題もあって、民権運動は「激化」していく。運動が暴力化し、秋田事件、名古屋事件、加波山事件と次々とテロ行為を繰り返す。最後に軍隊まで出動した秩父事件は、やはり「民権と貧困」が結びついた反乱として革命寸前にまで至っていたと思う。だがそのとき、自由党は解党を決議していた。
 その後の道は、日本流の財政融資による公共事業政策など「経済成長路線」であり、星享、原敬池田勇人の道だった。(岩波新書

輪島祐介『創られた「日本の心」神話』

輪島祐介『創られた「日本の心」神話』

 サントリー学芸賞を受けた若き音楽学者の戦後大衆音楽史である。戦前から戦後も含めての音楽史であり、ジャンルも演歌、歌謡曲、フォーク、Jポップ、ニューミュージックなど広い。さらにアメリカのジャズ、ロックなど世界的視野もある。だがあまりにも広すぎて、力作だが、読むのに苦労する。
 最後に「演歌は日本の心か」の問いには簡単に答えられないというのだから、ハシゴをはずされた感がする。だが素晴らしい見方があってそれが面白い。例えば美空ひばりは「演歌歌手」でないし、いまや偉大な昭和の歌手とされているが、1970年代までは否定的評価があり、今とだいぶ違う。どうして変わったのかの分析も鋭い。
 輪島氏の演歌論は独特である。演歌は明治に自由民権運動の宣伝として産まれたが、昭和初期に消え、1960年代に「演歌・艶歌・怨歌」として復興し、たった50年で「真性日本文化」になったというのだ。演歌イコール日本調でなく、輪島氏によれば、戦前・戦後のアメリカンポップスなどの洋楽が基盤となった「雑種文化」なのである。これに作者不詳の「流し」の伝統が接ぎ木されたのである。
 ではなぜ60年代末に演歌ができたのか。輪島氏は新左翼的「対抗文化」の形成をあげている。進歩的・近代レコード歌謡に対抗し、下層民が苦労して下からはい上がる「流し」の怨念が演歌のもとになっている。そのイデオローグは、五木寛之竹中労平岡正明氏らであり、それが70年代演歌アイドル・藤圭子を産む。
 60年安保闘争によって、逆説的だが、美空ひばりが反植民地民衆、社会主義リアリズムと再評価されていくのだ。川内康範が「演歌は日本の心だ」と規定する。1970年代以後の演歌は、演歌の健全化、脱怨念化という「昭和歌謡」の方向にいき、五木ひろし五木寛之から芸名もらう連続性)、八代亜紀の登場になる。
 同時に演歌と「みなさまのNHK」とカラオケによる「脱演歌」がおこり、市民権を得ていくのだ。いまや、演歌は消極的定義しかできず、「Jポップ以外のすべての歌謡」としかいえない。「日本人の心」という神話が間違っているのは、演歌が洋楽化されたリズムを持ち、民俗の民謡調の心を持たず、また60年代の新左翼の対抗文化から産まれたことにある。これでは、どうみても「日本人の心」とはいえないことになる。(光文社新書)

「私見・選挙拒否論」

私見・選挙拒否論」

私は「選挙」が民主主義の核とは思えない。選挙は拒否すべきであり、職業政治家は限定すべきで、将来は全廃すべきと考える。
① 選挙は自由でなく、特定政党や立候補したい人々しか選べない。私たち市民が選んだのでない人々が立候補している。これでは既得権益をもつ人しか選べない。
② 立候補した人がなにをやってきたかの評価の情報公開が行われず、政党や政策など「大きな物語」しかわからず、皆画一的である。
③ もし選挙が必要なら、最高裁判事の審査のような、消極的消去の方がベターである。また、立候補しない人々にも投票するのが、自由な選挙である。
④ 有名人や当選多数の多い人が「人気投票」的に票を集めてしまうのは、AKB総選挙と同じである。舛添、猪瀬の選挙を考えよう。
⑤ 選挙を官庁行政が取り仕切り莫大な経費をかけるのは、財政困難の今は、政党よりも社会福祉に使うべきである。
⑥ 今の状況では、選挙は権力・政権党に多くの利益を与える。メディアも政権党を多く報道する。一発勝負だと、敗者復活戦もない。多数決の疑問は『多数決を疑う』(岩波新書)を読むと参考になる。
⑦ 小さな社会から、選挙でなく「市民自主管理」をつみあげて、無数の共同体の集積による政治に発展させるべきである。分散型・並列型政治である
⑧ 投票率が上がることは、全体専制政治に行き着く。中国、ロシア、北朝鮮の100%投票率を考えると分かる。
⑨ 当選至上のため、大衆迎合ポピュリズムが強まり、大衆批判は弱まる。ためにヒットラーのような政治家が選挙制度で生まれる。
⑩ 競争的政治制度である選挙は、市場自由主義に見合う。アメリカの政治学者ダールのいうように、ポリアキーは、異議申し立てと市民参加の制度化を選挙制度でなく、行おうとしている。(『ポリアキー』高畠通敏ら訳、岩波文庫
  

橋本卓典『捨てられる銀行』

橋本卓典『捨てられる銀行』

 ジャーナリストによる地方銀行のドキュメントであり、金融行政の大きな変換もルポしている傑作だと思う。
 2015年金融庁は森信親長官就任で大旋回した。私は、日銀・黒田総裁就任よりも、森長官の仕事こそ、人口減少時代に、地銀と地方創生の「変革」に大きな転換になると考える。
 橋本氏は最後にこう書く。「地銀が企業の事業をみなくなったことで、新たな資金需要を生みにくい構造問題を生じさせた」日銀の大規模金融緩和が効果を発揮しない要因である。
 テレビドラマ「半沢直樹」で、陰湿な金融庁検査官が銀行の不良債権のありかたを、追い詰めていく。だが、森長官は、この「金融マニュアル」や検査業務を、廃止したというだけで、金融庁の自己否定として驚く。
 資産査定をして、不良債権を炙り出すよりも、森金融行政は、地方中小企業の事業再生や、新規起業を応援し、そのため銀行マンの地方企業とのコミュニケーション(「聞く力、対話能力など」)の人材養成を重視する。「短コロ」や「リレバン」の重視も面白い。
 資金を多く貸し、利ざやをとることや、信用保証制度を軽視し、顧客としての企業の事業再生を重視する。自己利益ばかりでなく、顧客の重視に向かうのは当然と、我ら市民は思うが、金融行政・銀行業務はこれまでそうはいっていなかった。
 私はリーマンショク以来の、公金・税金を銀行に投入する政策が、良心的な森長官の変革に見える。
 橋本氏の本が、城山三郎経済小説を読むように面白いのは、金融マンの人生と絡めて書いているからだ。
 森長官を支える金融のブレーン・キーマン日下智晴氏、地域金融のプロ・多胡秀人氏の人生の歩みを読むと、改革が当然と思えてくる。
 さらに組織としてのビジネスモデルを橋本氏はルポしている。
 稚内信用金庫(リスクをとるためのやせ我慢経営)、北國銀行(営業ノルマを捨てた地銀)、きらやか銀行(本業支援というビジネスモデル)、北都銀行(地域問題解決で再スタート)、この四ケースはどれも、地銀の今後のモデルになるだろう。(講談社現代新書