藤田真一『蕪村』

与謝蕪村集』
藤田真一『蕪村』

   詩人・大岡信氏は、芭蕉を求道者、蕪村は芸術家と言っていた。私は、蕪村は両義性の人だと思う。俳諧文人画、俗と超俗、江戸(結城や北関東)と京都(丹後、讃岐)、芭蕉陶淵明李白など漢詩、俳句と自由詩(俳詩)、儒学老荘思想など両義性を持っていた。
   日本美術史の河野元昭氏は、「無為自然の画家」という。(『与謝蕪村』新潮日本美術文庫)傑作「鳶鴉図」は、「荘子」の「雑編」から啓示を受け、胡蝶の句「うつヽなきつまみごヽころの胡蝶哉」もそうだという。陶淵明に感化されたロマン的桃源郷は、「武陵桃源図」の絵画で描かれ、俳句では、「桃源の路地の細さよ冬ごもり」「菜の花や月は東に日は西に」「商人を吼る犬ありもヽの花」がある。
   国文学者・藤田真一氏は、俳諧文人画は蕪村の後援者などの注文では繋がっていたと指摘している。絵画が売れる為にも、俳諧が必要だったのかもしれない。蕪村は早くから僧の格好をしていた。墨絵「蕪村自賛像」でも頭を剃って僧形だ。藤田氏は「離俗の法」を引用している。「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最もかたし」。俳諧漢詩文人画を繋ぐキーワードだと述べている。
   詩人・萩原朔太郎が、近代ロマン詩だと激賞した「北寿老仙をいたむ」は「君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に なんぞはるかなる」から始まるし、「春風馬堤曲」は、「やぶ入りや浪速を出でて長柄川 春風や堤長くうして家遠し」で始まる長詩である。そこには客観的写生主義でなく、主観的ロマン主義がある。萩原のように「郷愁の詩人」というよりは、想像力の創作が俳句という定型詩には無理だったのだろう。
  私は、蕪村こそ近代以前の「故郷喪失者」だったと思う。大阪・毛馬にうまれ、20歳に江戸に放浪したのは何故かは、謎に包まれる。38歳に京都に戻っても、死ぬまで毛馬の故郷に足を踏み入れなかった。ロマン主義は、故郷喪失者が創造するものなのだ。
私が好きな句と言われれば。沢山あるが一句だけというなら
  「春雨や小磯の小貝ぬるゝほど」か「遅き日のつもりて遠きむかし哉」である。好きな絵は、「狗子図小襖」か、「夜色楼台図」である。
  (藤田真一『蕪村』創元社、『与謝蕪村集』、清水孝之校注、新潮日本古典集成)