寺山修司『戦後詩』

寺山修司『戦後詩』

    寺山修司(1935−1983年)が、1965年に戦後詩を省察した名著だが、寺山の詩歌を理解するためにも欠かせない本だ。戦後詩のアンソロジーとしても読める。
    活字に頼らず、言葉の標準語化にまきこまれず、いかなる代理人にも頼らない「直接のコミュニケーション」の詩を、「話かける詩」を、寺山は行為の詩として述べている。記号は決して文学的逃避の場でなく、人性の内的冒険の場であるという。記号の体験は、行為の軌跡を辿るのではなく、「行為」そのものの手ごたえを感じる実証不能の世界が、詩人の世界だとも述べている。「ユリシーズの不在」ともいう。
    本当の詩人とは、「幻を見る人」でなく「幻を作る人」だと、長谷川龍生の「恐山」という詩を取り上げている。戦後詩の一つの潮流だった「荒地」の功罪論は面白い。寺山は鮎川信夫田村隆一らの詩を、主題は幻滅だが、擬似悲劇的だといい、なじみがたいとしている。自分を愛撫していて、厳格なものにかけているという。
   谷川俊太郎の朝の「おはよう」を呼びかける詩に、弱者の詩に朝の思想を呼び込んだ詩だと述べている。だが、同人詩、短歌、俳句の結社化には厳しい。相互慰謝と技法の相似化とともに、他人がいなくなっていく。詩人が詩を通して社会的存在になることは、運動以外のときも、詩人として「自分の場所」をもつことだと、寺山はいう。
   寺山が選ぶ戦後詩人は、谷川俊太郎岩田宏黒田喜夫吉岡実だが、同時に西東三鬼、塚本邦雄星野哲郎という俳歌人、作詞家を挙げているのも面白い。星野を戦後詩人の主だった者とし、活字を捨て他人の肉体をメディアに選び、「自立」を歌ったと述べている。畠山みどり『出世街道』の歌。「他人に好かれて いい子になって 落ちて行くときゃ独りじゃないか おれの墓場は おいらがさがす そうだその気で ゆこうじゃないか」(講談社文芸文庫