ボェティウス『哲学の慰め』

ボェティウス『哲学の慰め』

  6世紀西ローマ帝国滅亡後、東ゴート王国テオドリック王に仕えたが、反逆罪にとわれ処刑されたボェティウスが、獄中で書き遺した遺著である。塩野七生氏によると、ゴート族のローマ支配は50年続き「蛮族の平和」といわれ、軍事以外は「敗者の活用」としてローマ人に任され、信任を得たローマ人ボェティウスは、いまでいう官房長官まで上り詰めた。
  だが、カトリック教徒の元老院議員は、異端アリウス派を信仰するゴート王を、東ローマ帝国の力を借りて倒そうとしたのを弁護したため、連座して反逆罪で逮捕されたという。(『ローマ人の物語・ローマ世界の終焉』新潮文庫
  獄中で処刑を待つ間、ギリシャ思想のプラトンアリストテレスの思想に詳しいボェティウスは、「一者」としての最高善を持つ神の理性による「摂理」を説いている。この本は中世に読み繋がれた。無実の罪で獄に繋がれ、誹謗・密告した人々が正義面をしている苦悩が語られる。運命は何故こうしたことを行うのかが対話で明らかにされていく。
  変わりやすいのが幸福の心性であり、地上の富、名誉、快楽、民衆の人気、高位の変わりやすさ、無限の欲望の空しさが述べられる。内に抱く善意から善を創造した「一者」としての神の世界に憧れるが、仏教的な厭離穢土思想ではない。新プラトン主義の神秘思想でもなく、ボェティウスは、あくまでも理性により運命の上に深い深慮、摂理を見ようとする。
  私はボェティウスの善悪の倫理思想を読んでいて、日本中世の浄土真宗の教祖・親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」を連想した。悪徳は心の病気であり、同情されるべきものだという。悪は、盲目的無知や放恣な欲望によって人間の本性の善を抑止できない「無力さ」から生じると見る。
  その上よこしまな行いは決して幸福に到達できない不幸を抱えており、善人に悪の不幸さを気付かせる。悪無力説からボェティウスは、「然らば与えよ 善人には愛を、悪人には同情を」という。
  果たしてボェティウスは、この赦しと寛容の摂理で、自分を罪に陥れ生命を奪った人々を超越し、慰めを感じ「一者」の元に行ったのだろうか。(岩波文庫、畠中尚志訳)