アウレーリウス『自省録』

マルクス・アウレーリウス『自省録』


 哲人皇帝といわれた西暦2世紀のローマ皇帝によるストア哲学の「自己内対話」の書である。訳者で精神科医神谷美恵子は若いとき『自省録』に傾倒したためか読みやすい訳文である。ローマ皇帝がこうした内省的自己内対話を書くのは不思議な気がする。カエサルは記録歴史書ガリア戦記』を書いたが、自己の行動を記録する一種の回想録は、統治者としては現代の大統領回顧録のようで納得できる。皇帝よりも哲学者になりたくてというアウレーリアスの気質の問題とも思えない。塩野七生さんは『ローマ人の物語』でこの皇帝から「終わりの始まり」というローマ帝国衰亡が始まったとしている。(新潮文庫29、30巻)この皇帝の時代から苦難が激しくなる。洪水、飢饉、ペスト、パルティアやゲルマニア戦役、将軍の反乱、この本も戦役の陣営で覚書として書かれたといわれるが、不思議なことに現実のことは何一つ触れられていない。誠実、節制、叡智、寛容、宇宙国家の市民、義務感、忍耐、死を恐れない不動心、理性的神々と自然への順応などが説かれる。私には皇帝の孤独が、哲学という内省への逃避、別世界に生きたとしか思えてならない。息子の世襲皇帝コモドゥスが「剣闘士グラディエーダー皇帝」といわれ、(そういえばラッセル・クロウの映画があった)、アウレーリアス死後、姉を殺し、浴室で暗殺された家庭悲劇を招くのも『自省録』とはあまりにもかけ離れている。突飛な連想だが、私は鎌倉三代将軍源実朝と和歌の関係を感じた。
 「人生の時は一瞬にすぎず、人の実質は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組合わせは腐敗しやすく、その魂は渦をまいており、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。」といい、「すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。」「死を安らかな心で待ち、これは各生物を構成する要素が解体するにすぎない。」ともいうマルクス皇帝は、アジア的「無の思想」に接近していると私にはおもえる。不動心と運命愛、この世を去る自死の覚悟は、日本の武士道イデオロギー的とも似通うと思った・(岩波文庫神谷美恵子訳)