安藤宏『「私」をつくる』

安藤宏『「私」をつくる』

      日本近代小説の特徴として「私小説」があり、これに対して「本格小説」でないという批判が長年続いてきた。近代西欧小説を模範とした場合、日本小説の「半近代性」だとされた。小林秀雄伊藤整平野謙などの論考がある。だが最近は読者が、主人公と作者を重ねてしまう「読書習慣」や、文化論的視点から考えられ、見直しが生じている。
      安藤氏の野心的試みも、一人称や三人称といった表現方法をテコにして、近代日本小説の「私」は、作者を連想させつつも、それとは別物の作品のなかを自由に浮遊し独自の奥行きを作り出していく「虚構の主体」という潜在的黒子というパフォーマンスをする「私」という点を打ち出している。面白い視点だと思う。
     安藤氏は、日本近代小説に「なりきり=目隠しの法則」を持ち出す。「演技する私」、作者を演じることが、日本の「物語」や口承文芸に突然作者が顔を出し、解説することの系譜にあるのかもしれない。
    漱石の『三四郎』を例に、「なりきり=目隠し」の法則が説明されている。一見三人称小説の背後にも、それを読者に語る「私」が存在し、隠れているのだ。安藤氏は「演じられる三人称」で、漱石は文明批評などすべてを見通しているようにふるまい、時には特定の人物になりきり、その人物の見えない部分は頬かむりしてしまうという。
    結果的には、ある話柄にかぎって「目隠し」状態が生じるから、読者はそれを埋めるため「もう一つの物語」を作り出す余地が出来る。
    志賀直哉太宰治などを例に取り、「私」が「私」をつくるという「メタレベルの法則」も面白い。志賀直哉『和解』や太宰治道化の華』などは「小説の書けない小説家」を通じて語られるが、書けないのはあくまでも作品中の「僕」や「自分」で作者ではない。「ありのまま」という幻想がここで描かれていく。
    私が面白かったのは、「憑依する私」で、泉鏡花川端康成牧野信一などの一見「私小説」「心境小説」といわれていても、一人称が告白性を強めていくに従い、幻想小説になり自己の内部の掘り起こし、異世界の媒体の非現実に、転化していくという指摘である。
    「作者を演じる」ことが、幻想小説の黒子の役割にまでいくということは、日本近代小説は誕生からポストモダン性を持ち、伝統物語の力の強さを示しているのでははいか。
    現実と仮想現実の両義性を持った「私」からなり、近代自我のアイデンティの同一性よりも、作者が浮遊する自我だったのかもしれない。芥川龍之介の作品はそうした端境期にある。(岩波新書