『現代小説クロニクル』

『現代小説クロニクル2000−2004』

           日本文藝家協会編の日本現代の短編小説のアンソロジーである。時代が見える。選んだ基準はわからないが、21世紀に入った日本小説の特徴がでている。人間の家族や恋人などの「愛」と「つながり」がテーマとなっている。
そこには分裂がある。保坂和志「生きる喜び」、堀江敏幸「砂売りが通る」星野智幸「われら猫の子」佐藤洋二郎「入学式」は、伝統的な「私小説的」な、市民の生活における愛と喪失を描いている。
           だが綿矢リサ「インストール」金原ひとみ蛇にピアス町田康「逆水戸」は、仮想現実の世界と現実における愛と喪失を描く。
保坂氏には、日常の生活の中での平凡だが深淵な「愛」とは何かがかかれているし、堀江氏は、子供を作ることを拒否した夫婦の自由で、束縛や常識がら解放された家族の愛とは何かが追求されている。どちらもペットとしての猫が、小説筋の媒介的役割をしているのも面白い。
           堀江氏「砂売りが通る」は、チエホフの短編を読むようなうまさを感じる。愛の喪失が、これだけさりげなく、それでいて深く書かれているのには感動する。
           綿矢氏の作品は、一〇代の少年少女が、ネットの仮想現実と仮想人格の世界で、愛の不可能性を体験しつつ、「愛」とは演出も劇的な悲劇性もない平凡な生活のなかに、深く存在していくことを知っていく小説である。ネット時代の教養小説の芽をみる。町田氏の水戸黄門の仮想現実をパンク的に逆転できることが、仮想の無限増殖の恐怖さえ感じてしまう。
           私は、金原氏の小説は傑作だと思う。このクロニクルに河野多恵子「半所有者」が入っているが、河野氏は肉体の仮想化を死姦という形で示し、金原氏はピアスや刺青という仮想人体でSM姦として示している。だがどちらも純愛小説なのだ。死という喪失が「愛」を滅ぼさない。愛は仮想かもしれないが、仮想を超克できるかもしれない。(講談社文芸文庫日本文藝家協会編)