シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』

シェイクスピアジュリアス・シーザー

    シェイクスピアの演劇は、場面転換が次々と起こる。「幕」の劇でなく「場」のドラマである。映画やTVドラマのように、スピード感がある。このドラマも歴史的事件を扱っているためか、場面転換がアクション映画のように素早く起こる。
    歴史劇としては新しさは無いだろう。ほとんどブルターク『英雄伝』に則っ取っているという。またシーザーを主人公とした劇でもない。すぐ暗殺されてしまうからだ。野心的軍人というよりも、予言や暗示に汲々とする平凡人といった役割である。題名と違う。
    私は、この劇は「友情」を扱った劇だと思う。シェイクスピアには友情劇が幾つかある。最近のLINEのように、多数と繋がればいいといった「友情」と違う。より深い同志愛的な友情である。
    この劇では、ブルータスとキャシアスとの友情劇である。二人ともローマ共和国に独裁者が出現することを防ぎ、民主的共和国を守ろうとする。だが、この友情は葛藤がある。独裁者暗殺というテロリズムが果たして正しいかということで、二人の友情には齟齬がある。そこがドラマを生む。
    理想主義的で、正義と公正という観念に生きるブルータスと、現実主義的で、陰謀策略の才能をもつキャシアスとの友情の上でのやりとりは、第五幕で二人が死んでいく前の劇的な対話に凝集している。現実的にはキャシアスの考え方が正しいだろう。だが、ブルータスの理想主義的な正義感に、キャシアスは友情から従って滅びていく。
    男同士の「心中劇」として、男女の心中を描いた近松門左衛門に匹敵する。テロリズムという不条理の世界に生きてしまう男同士の友情を、シェイクスピアは描いていく。
ハムレット』のホーレショとハムレットの友情、『『ヴェニスの商人』のアントニオとパサーニオの友情を、シェイクスピアは見事に劇化している。(新潮文庫福田恒存訳)