柄谷行人『坂口安吾と中上健次』

柄谷行人坂口安吾中上健次

       「知性と闘争の文学」といわれる坂口安吾中上健次を論じた柄谷氏の文学論である。この評論は1996年に出ているが、80年代以降こうした文学は見かけなくなったといえる。
       だが、坂口や中上の再評価は起こっていると思う。柄谷氏は安吾の「文学のふるさと」を、帰り着いて安堵するような自己同一性でなく、われわれを突き放して無根拠のなかで生きるよう迫る「他なるもの」のことという。「堕落」とは、自らを突き放す他者性に直面することだ。『日本文化私観』には「アイデデンティティの追求といわれている日本論の流行にはおよそ怠惰の知性しかない」と書く。
       安吾志賀直哉の「暗夜行路」の自然との同一性や、川端康成の「美しき日本の私」、ブルーノ・タウト「日本美の再発見」の対極にある。柄谷氏はそれは自己認識における内的拒絶を含まぬ自己納得にすぎないからだという。さらに安吾永井荷風を、「他者との関係や摩擦や葛藤を人間の根底から考究し、独自の生き方を見いだそうとする努力の本質的な欠如」とこいっている。
       中上の文学に対して柄谷氏は、私小説のリアリズム近代「小説」と、民俗的、伝統的な同一物の回復と反復の「物語」の二項を乗り越えようとする知性小説と見ている。歴史の予定調和的な日本イデオロギーに違和感を持ち、歴史的起源というイデアをもとに、差別社会(被差別部落=路地)を自壊させようとしている。安易な共同体回帰でもなく、ポストモダン的地上げの新自由市場経済の解体・消滅作用でもない。
       柄谷氏は「差異」と「差別」を分ける中上の知性を、同一性に従属する「差別」は不毛だが、「差異」は文化の創造に不可欠であり、中上は「熊野集」で、差別の「路地」においてそえ「差異の産物」であること見いだしたという。路地の消滅は町と路地の異質空間をつなげ、消費社会的な均質化をもたらす。だが同時に新たな「路地」という差別を生み出す。中上は紀州・新宮から「新宿」に死ぬまで飛び込み差異化を追求するのだ。
       柄谷氏のこの文学論は名著だ。いまこそ読み直したい。(大田出版)