幸田露伴『努力論』

幸田露伴を読む(4)
『努力論』
   露伴の幸福論・人生論だが、東洋思想を基盤にしたもので、西欧の功利主義(ミルやラッセルなど)や、キリスト教的(ヒルティなど)、合理的幸福論(アランなど)とは違った視点を述べているので面白い。
   露伴は明治末期の苦悩多き時代に、「のびのびと勢よく日を送り、楽しく生を遂げる」ため、「苦を転じて楽となし、勇健の意気を以て懊悩焦燥の態度を払拭」するために書いたという。
    露伴は運命論を避け、「自己の革新」による自らの運命を作り出す」ことを重視し、占いや新宗教などに頼るのでなく、意欲重視の「新しい自己」創造を勧める。
  露伴の思想は「気」一元論と言っていいだろう。この本の「静光動光」「進潮退潮」という2章では、宇宙から自然、生物、人間の身体や心まで「気」によって説明しようとしている。「心」は「気」なのである。露伴のいう「気」は、生命エネルギーのようなものではなかろうか。集中力とも捉えられる。
  「気の張り」を重んじる。勿論「気の弛み」との相互循環も認めているが、日常の生活の些事から、仕事、趣味、身体鍛錬、コミュニケーションまで、ハキハキと一事を「気の張り」で片づけていくことだという。
    露伴が「努力」重視は、「気の張り」をいかに修行にいかすかということになる。私は露伴が、娘幸田文に掃除から家事にいかに「気の張り」を教えていったかを理解した。
  露伴は己の好む趣味から「気の張り」が生じるというから、明治「オタク」重視であり、同時に「気が散る」ことを非とするから、「ナガラ族」批判者でもある。
   「気の張り」は大切だが、露伴はその行き過ぎで偏頗になる「気の凝り」は否定する。
  露伴の幸福三説も面白い。「惜福」は、どんな人にも幸運の福が来ることがあるが、その福をいかに控えめに取り消費してしまわないことである。「分福」とは、自分が得た幸福を他人にも分け与えることをいう。自己一人で独占しない。「植福」は、「我が力や情や智を以て、人生に吉慶幸福となるべき物質や情趣や智識を寄与する」ことだ。
   他者に、社会に幸福を植え付けることが、露伴は最大の「幸福」だという。功利主義的幸福観とはまるで違うのだ。自分だけの幸福は存在しないのだ。「絆」をつくることにより、「自己」も幸せになる。(岩波文庫