幸田露伴『幻談・観画談』

幸田露伴を読む(1)
『幻談・観画談』

    幸田露伴は、幻想文学(怪談)をいくつも書いている。だが、ポーやホフマンのような超現実性や怪異性は薄い。泉鏡花のような官能的な神秘性もない。露伴の怪談には、中国的オカルト性や神仙性があり、日常生活と境界領域で接しているからだと思う。
    「幻談」は、なにか怪異な超現実が描かれてはいない。海釣りの話で、釣れず帰る夕暮れの海面に、細長い釣竿が 突き出してくる。手繰り寄せると死人が釣り中に転落死して竿を離さない。無理して竿だけを持ち帰るが、その釣竿は逸物なのだ。翌日また釣りに行くと、また竿が現れる。このあたり露伴思想の「連環」が投影されている。釣り主は、夕暮れの海に竿を帰す。物語は単純だが、読み終えると少しずつ恐怖が忍び寄る。モーパッサンの「水の上」を連想した。露伴の場合は、東洋的「無」という平坦な世界に帰っていくような気がする。また「語り」が円朝のような談話調で、洗練された日本語だ。
   「観画談」は、出世のため勉学しすぎ神経を病んだ青年が、大雨のなか辺鄙な山中の寺にたどり着き泊まる。泉鏡花高野聖」に状況が似ているが、その幻想性は全然違う。洪水を避け、一段上の奥の部屋に避難する。そこの障子には、画が屏風絵のように描かれている。その細かい描写を見ているうちに、画中の人物に呼びかけられ、入ろうとするが暴風で現実に帰る。青年は野心の迷妄を捨て、平凡な人生を歩もうとする。
   露伴には、現実と虚構つまりそうした「差異」をなくし、「無」という差異なき世界が連続して存在しているのだと思う。「怪談」というエッセイで、日常の平穏無事を願いながら、常態でない異常なことを見たがり聞きたがる。それが怪談だといっている。「幻談」でもウインパーのマッターホルン登攀のあと、4人が滑落死したのち、生存した4人皆が山に巨大な十字架をみた話を紹介している。(『幻談。観画談』岩波文庫。『幸田露伴』ちくま日本文学、東雅夫編『幸田露伴集 怪談』ちくま文庫