幸田露伴「連環記」

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幸田露伴『連環記』

    昭和16年の露伴最後の小説である。平安朝の往生伝に則ったエリート学者貴族たちがいかに現実を離脱して出家していくかが、連環のように連なって描かれていく。露伴の博識を土台にして、荘重体と語りもの文体の連環で書かれていく。不思議な小説だ。
    『池亭記』を書いた文章博士慶滋保胤は、都の富裕層の奢侈と貧困層の格差や、位階争いの政治、牛馬を鞭打ち苦しめるなどの現実社会の矛盾に嫌気が差し、出家していく。露伴はその出家を淡々と記していく。ついで環は保胤が教えを受けようとした増賀上人が、宮廷の奢侈に対して、糞尿談という奇行で抵抗する「宇治拾遺物語」の逸話に移行していく。 
    エリート層の少数批判者が、現実逃亡として出家をしていく。だが大江定基・三河守が出家し、保胤の元に走る話は奇怪である。不倫の恋で妻ともめた学者一家の定基に対し、親族大江匡衝とその妻で歌人赤染右衛門が、干渉して争う。定基の妻は出て行くが、愛人は若くして死ぬ。死体と添い寝し「口まで吸う」狂態を演じ、出家していく。
    露伴は定基の話を延々と描く。定基の生きる現実社会には、「犠牲」が必要で、国家社会における「犠牲」を否定してはいない。明治人露伴にはそれは無理だろう。だが強固な現実社会の「豪傑主義」に対して、露伴が「現実離脱」にこれだけ連環として綴っていくのは、私は第二次世界大戦の時代があったとおもうのである。消極的な現実批判の抵抗主義だと思う。
    定基は、中国・宋の寺院に教えを受けに渡り、そこで中国人と「連環」を作り出し、数十年後に中国で客死する。日中戦争当時に、国籍離脱を示めし、日中友好を暗示していると思う。
    明と暗、陰と陽、現実と現実離脱の連環がこの小説では、ない交ぜになって浮かび上がる。戦時中、軍国主義に平和な美的な女性たちの日常生活を描くことにより抵抗した谷崎潤一郎細雪』とは対照的だが、『連環記』にも仏教的な現実離脱による抵抗精神があるのではなかろうか。(岩波文庫