ユルスナール及びルシュール『三島由紀夫』

ユルスナール三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』
ルシュール『三島由紀夫

  フランスの女性作家と女性ジャーナリストの三島論であり、伝記である。外国人の目で客観的に三島を捉えようとしている。ルシュールは日本人がもつ偏見から離れ、ジャーナリスト的な冷静さと丹念さで、三島の一生を描いていく。作家ユルスナールは、あれほど綿密に熟考された三島の死は、彼の作品の一つという。
   ルシュールは、三島は自分の死を様々なテーマが交錯する一本の歌舞伎のように仕立て上げたといい、「政治的反抗、自己愛的幻想、自己懲罰、贖罪そういったものが非現実的な演出のなかでひとつに撚り合わせている」と見る。三島は「演劇的人間」であり、「仮面の告白」から、自己劇化を行い、戯曲を創り、映画も作り俳優にもなった。自分の写真集も演出して出版する。太宰治の自殺は、偶然的な道化的自己劇化であり、三島、計画的な悲劇的仮面の自己劇化である。
   ルシュールもユルスナールも、三島の幼少期の「ねじれた生い立ち」に注目している。貴族的な父方の祖母により幼い息子は奪われ、「孫対祖母のほとんど官能的関係」だとユルスナールは書き、三島の作品には聡明さと力を同時に備えた「機械仕掛けの女神」への好みがあるという。
   それが作品で「宴のあと」の女主人公かつや、「春の雪」の聡子、サド公爵夫人に結晶化していると読む。ルシュールは自閉的に外に出さず、歌舞伎や読書に耽溺させた祖母なくしては、おそらく作家三島は誕生しなかったと言い切る。
   二人とも三島のフランス文学など西欧小説の手法と、「みやび」など日本古典美学の分裂・折衷、菊(文学)と刀(剣)の併存、ロマン主義と古典主義の往還、世界からの注目への偏執などの三島の生涯を丹念に辿っている。ルシュールは、「美と恍惚と死」の三位一体がいかに作られたかを、時代状況まで踏み込み描く。
   ユルスナールは「豊饒の海」からすべてが変わるとし、完全に遺書だという。ユルスナールは「死」という三島の情念が、生を実存的に輝かせるストア哲学的だというが、ルシュールは、「葉隠」の武士道的死との三島の親和性を強調している。だが二人とも「輪廻転生」の仏教的思想には違和感があるようだ。
   精神より肉体の方が高度に観念的であり、言葉が神秘化していたものを筋肉の行使がやすやす解明したという三島の「肉体神秘主義」に二人ともおおくを語っている。
   三島の政治思想は、現実に存在しない「天皇原理主義ではあるが、盾の会が自衛隊を蜂起させ、憲法第九条を国会で改正させるというテロリズムでなく、切腹という儀式的自死に行き着いた過程が何故なのかは十分に書かれていない。
   ユルスナールは、イスラーム原理主義のように「もし将来の日本に、短期間であれ国家主義的反動的革命が勝利するとすれば、盾の会は先駆者になるだろう」と不気味な記述をしている。(ルシュール『三島由紀夫祥伝社新書、鈴木雅生訳、ユルスナール三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』河出文庫渋澤龍彦訳)