朝倉友海『「東アジアに哲学はない」のか』

朝倉友海『「東アジアに哲学はない」のか』

  確か中江兆民だったか、「日本に哲学なし」といった。また、フランスの哲学者・デリダが2004年中国に行った時「中国に哲学がない」といった。デリダがいうのは、古代ギリシャに起源をもつ形而上学と、その発展のデカルト、カント、ヘーゲルの近代哲学がないという意味だろう。丸山眞男も、日本思想の雑居性を指摘し、日本には弁証的思考がないと『日本の思想』で書いた。
   はたしてそうか。朝倉氏は、東アジアには哲学があり、日本の西田幾多郎を中心とした京都学派と、中国の熊十力や牟宗三の新儒家をあげ、この本で西洋哲学と向かい合い、東アジアの内発的哲学創設としてとらえ、両哲学の相似性と交錯性を論じている。新儒家は、中国共産党政権成立後に台湾、香港に逃れ、大きな思想運動を作り上げた。私は朝倉氏の本を読み、両哲学がカント、ハイデッガーなどの西洋哲学との対話をしながらも、仏教思想(天台円教)の影響が大きいことを知った。
   朝倉氏によれば、ハイデッガーの「形而上学の存在―神―論的な構成」に対して、東アジアの2哲学は「存在―場所―論的構成」になっているという。京都学派と新儒家が見出したのは、いかなる意味でも「神」のような基底的、実体的なものは規定されず、根拠づけが破綻するところに開かれた思想である。
   西田思想は、無基底的場所の論理、あるいは「本体なき様相」の世界であり、牟宗三の天台解釈でいえば、「無住の本より一切法を立つ」だと朝倉氏は指摘している。そこには「神=有」と「場所=無」の対立がある。
   西田の場所論も牟宗三の円教論も、わたしたちの在り方を主体や主観というもので捉えず、身心一如の表象不可能なパラドックス的境地で見る仏教思想を基底にしているところで交錯していくと朝倉氏は述べている。
   朝倉氏はこの二つの東アジアの哲学を起点にして、新たな哲学の創設を期待しているが、その相違点もかなりあるようなので、その擦りあわせによる新哲学が出来るかどうかは不明である。だが、京都学派と新儒学についての考察、面白く読んだ。(岩波現代全書)