内村鑑三『宗教座談』

 内村鑑三(1)
内村鑑三『宗教座談』

   明治の宗教的人間の宗教論(キリスト教)である。どの教会、宗派にも属さない無教会主義者である。この本で内村が教会を嫌うのは、罪悪の救済力に乏しく、慈善クラブや社交場になっているためだと批判し、私欲を殺さんためにキリストに来たりし者が、宗派を創る野心を持つのはもってのほかと述べている。
   この本を読むと、内村の神の前での罪の意識が強烈なのがわかる。神の救済の前には虚勢をはり、人の上に立つことを喜び、敵の失敗を歓喜し、怒りやすく、宥恕なく、実に憐れむべき人間だと言っている。人間の罪は、罪びと自身では救えず、キリストの贖罪によるしかないという「他力信仰」である。内村の「罪」意識は、わからないが、最初の妻との半年の破局、第二の妻の不敬事件直後の病没(2年しか続かず)への自己中心性への自覚も一つの要因かもしれない。
  内村は聖書原理主義ではなく、神は聖書より大なるもので、祈祷をもって直に神に接し、心に示現しなければ神を知ることは出来ずという「神秘主義」の面があるのを知った。「祈祷」は救う神への感謝であり、「奇蹟」は宗教が持つ超自然的、超人間的な力であり、罪人として救い難い自己をキリストが救うことが、内村は最大の奇蹟だと考えた。
   私が感動したのは、「復活」への内村の強い信仰である。「人の霊魂には彼が堅く神を信ずる以上は、彼の肉体をも取戻すだけの力が与えられています」と語る。ここに宗教信仰の希望がある。内村は「霊魂」(ソール)を、「個人の不変性」と信じ、「永世」を「肉体の死後に霊魂がその新たに授かりし霊体をもって生命を継続すること」としている。妻の急逝時の短歌もいい。
  「天国の事」は、内村が描いた理想社会であるとともに、明治日本社会に対する痛烈な批判として読める。宗教的人間がいきいきと、この本に描かれている。(岩波文庫。「現代日本思想体系5内村鑑三筑摩書房