『堤中納言物語』

王朝物語を読む(その三)
堤中納言物語

  『源氏物語』という王朝物語の大作が出た後の11世紀から12世紀に書かれたポスト源氏の物語だから、アンチ王朝物語の色が濃い。長編でなく、オムニバス的な短編を10編連ねている。「デカメロン」や「カンタベリー物語」の語り口がある。短編「このついで」では、春雨そぼ降る日、中宮を慰めるため3人が代わる代わる実話を語るのも「デカメロン」的だ。
  私はこの物語は「バロック」(歪んだ真珠)だと思う。「みやび」や「もののあわれ」よりも、写実的であり、滑稽であり、意外性が重視される。上流貴族よりも中流下流貴族や、家来や使用人、童という少年少女(「貝合わせ」という短編)が、生き生きえがかれ、「今昔物語」の橋渡しをしている。
   ドナルド・キーン氏は、物語の結末が粗末であり、全体として「貧弱な作品群」だという。(『日本文学の歴史』古代・中世編3中央公論社)だがそうだろうか。キーン氏も物語のなかで傑出しているという「虫めずる姫君」は、花よ蝶よと騒ぐが、蝶のもとの毛虫を集めて成長するところを観察しようとする。「人々の、花や蝶やとめずるこそ、はかなくあやしけれ。人には、実あり。本地尋ねたるこそ、心ばえをかしけれ」また「人はすべて、つくろふ所あるはわろし」と眉もぬかず、お歯黒も付けず、自然の白い歯で笑う。こんな姫君は王朝物語には皆無だ。
  この物語集には、偶然の「取り違え」がいくつも取り上げられている。「花桜折る中将」では、荒れ屋敷から美女の姫君の略奪を決行するが、代わりに寝ていた母親の老婆で尼を取り違えて連れ出してしまう。「車よするほどに、古びたる声にて『いなや、こは、たれぞ』との給ふ。その後いかが。をこがましうこそ、御容貌はかぎりなかかりけれど」で皮肉に終わる。「思わぬ方にとまりする少将」では、姉と妹を別々の少将が結婚していたが、ある日二人を自宅に連れ込もうとして、姉と妹とを取り違え、変な形で夫婦交換が実現してしまう。
  王朝物語の「みやび」に対する皮肉がある。「はい墨」では、二人妻をもつ色好みの男が、情にほだされ元妻の所に帰るが、また新妻にもどったところ、新妻が驚き、白粉と眉をかくはい墨を顔中に塗りたくり真っ黒になり、男が逃げ出す。やはり、バロック的な奇妙な味が、この短編集にはある。坂口由美子氏は、院政末期王朝文化がエネルギーを失い、物語世界は、次第にデフォルメされたものに、奇想に落ちていったと指摘している。(『堤中納言物語角川ソフィア文庫)私は「源氏物語」の宇治十帖へのデフォルメを強く感じた。(『堤中納言物語』新潮日本古典集成、塚原鉄雄校注)