円地文子『源氏物語私見』

女性作家と「源氏物語」(その③)


円地文子源氏物語私見
 
 円地氏はこの本では、桐壺、藤壺六条御息所、朧月夜など、当時最高貴族の女性が、行動の自由を束縛されている環境を破って、自分の意志や自我を通す強さが強調されている。桐壺は周囲からの嫌がらせを跳ね除けて、帝との恋愛を成就させているという。宮仕えの主従関係を超えた一対一の恋愛を感じるとも言う。 「六条御息所考」は面白い。六条御息所は自我をはっきり持ち、憑霊現象を意識しない自己分裂のなかで行動に移す。古代的巫女的な能力を源氏との恋愛に及ぼしている。「源氏物語」には、飢饉、災害、治安不安のなかに「雅」を理想とする宮廷社会が孤島のように浮んでいるが、その底には、古代的野蛮・野生が渦巻き二重構造になっている。
 光源氏には「雅」と古代的性的野生(略奪婚、レイプ的性エネルギーなど)が二重性格としてある。円地氏は、紫式部はリアリストであり「女性の抑制された自我の極限を巫女的能力に統一して、男性に対峙させた」のが御息所と指摘している。
 源氏物語には「罪」という字の多さに驚く。円地氏は源氏の「罪の意識について」考察している。光源氏、冷泉院、薫について、出生をめぐる親子関係に焦点をしぼって、男女間の愛欲に尾を引く子の代の負担も、「罪」という言葉に集約されていると円地氏は考えている。
 源氏が父帝に対し信頼や甘えがあり、父の後妻との不倫に罪の意識を見出さない。(私はソフォクレスの「オイディプス王」との違いを思った)また薫や冷泉院など姦淫の子の「罪」の意識が考えられている。ハムレットが、母の姦淫を責める愛と憎悪の交じり合ったしっこさとは違い、親に孝行できない東洋的罪深さの意識や、東洋といっても中国の始皇帝のように、母の姦通により出来た子として、実父を殺していく激烈な「史記」とを比較しながら、源氏には「罪」を弛緩したもやもやした王朝的雰囲気に溶かし込んでいくような、たゆたう雲のようなあいまいさを指摘している円地氏の見方は 日本文化論としても面白かった。(新潮文庫