橋本治『浄瑠璃を読もう』

橋本治浄瑠璃を読もう』

 浄瑠璃論でもあり、江戸文化論でもある。私は「菅原伝授手習鑑」の「寺小屋の場」を歌舞伎や文楽で見ると、涙がどうしても出る。自虐的忠義のためわが子を犠牲にする不合理は、分かっていても涙が出る。浄瑠璃のストーリーは複雑怪奇で、橋本氏もその筋の説明に苦労しているが、三大浄瑠璃近松門左衛門「国姓爺合戦」「冥途の飛脚」近松半二「妹背山女庭訓」「本朝二十四考」など8作品を取り上げて浄瑠璃とは何かを解明していく。
 橋本氏によれば、時代物は予定調和の歴史を、江戸町人が参加できる町人の心性で「歴史ファンタジー」に仕立て上げたものだという。歴史の大枠は変えず、その脇での町人的心性(例えば義理と人情)で「不幸な結果を甘受するしかない者の鎮魂」で、浄瑠璃のドラマには「救い」はないという。他方世話物という現代物は「歴史枠」がないから、義理人情から、「現実の大枠」からはみ出してしまった人間たちの物語になる。予定調和的に出来上がっている世界から足を踏み外し破綻にいたるのだ。
 橋本氏によれば、「仮名手本忠臣蔵」は町人が参加できない赤穂義士に参加してみたいという矛盾した欲望が、自分たちに必要なドラマを別種に構築したから、不思議な虚構だらけの戯曲になるという。あだ討ちよりも「お軽勘平」と「加古川本蔵一家の悲劇」が、忠臣蔵への参加欲望から生まれる。「義経千本桜」も完結した源平合戦義経追討という歴史を江戸町人が「我らにも歴史を」という自己主張から改変されてできあがる。子が親をおもう情愛が王朝貴族や源氏平家よりもいがみの源太や子狐の物語になる。
私がこの本で面白かったのは「菅原伝授手習鑑」の解釈だった。菅原道真藤原時平による追放の「歴史」を枠にしているが、百姓の三つ子(梅王、松王、桜丸)の三人が恩ある道真のため自己犠牲的献身をする話が主筋である。そのためどうしてわが子を殺すのか、それが「日本的悲劇」の核心になるのか、それをどうして菅原道真の左遷劇のなかにまぎれこますのかが解明されている。子供の犠牲が浄瑠璃には多い。(「本朝二十四考」「妹背山女庭訓など」や悪人が実は善人だったという「もどり」など自虐的マゾヒズムの受身的悲劇が浄瑠璃には多い。それは政治参加できない江戸町人文化の一つの心性でもあると橋本氏は考えている。(新潮社)。