『竹取物語』

王朝物語を読む(その一)
竹取物語

  加藤周一は、この物語について九世紀作だが、十分な叙述、緊密な合理的な構成は、平安朝物語のみならず、日本の小説のなかで全く群を抜き、ほとんど日本土着の精神とは異質と指摘している。(『日本文学史序説』平凡社)私もそう思う。その宇宙性(SF小説で、かぐや姫は宇宙人)から地球性(富士山噴火の由来)、グローバル性(5人の求婚者への要求が、中国、インド、東南アジアなどのブランド品)などに示されている。
  そこには権力構造に対する、また富(古代資本主義)に対する批判があり、天皇制に対する風刺がある。古代では稀有のことだ。かぐや姫は求婚する天皇の面前で「私はこの国の人間でない」と宣言する。反体制小説と読める。求婚者車持皇子は、摂関家藤原不比等の風刺という説もあるくらいだ。それにユーモア性が凄い。これはオヤジギャグだと思ってしまう。例えば 
   かぐや姫が「仏の御石の鉢」を要求し嘘が見破られた皇子が、外に出て「鉢を棄てる」を「恥を棄てる」に洒落ている。中納言が燕の子安貝を手に入れようと屋根に上り落下し、子安貝でなく古糞を握っていたのを、「甲斐(貝)がない」でしめくくる。野口元大氏は「言語遊戯の偏愛」があるとしている。貴族の求婚者の詐欺紛いの術策は、現代資本主義にもあり得るだろう。
  フェミニストかぐや姫による結婚の男女闘争史と読める求婚譚は、不手際な天皇において極まる。そこには、天上界と地上界との、明確な隔絶がある。日本に「超越」的視点を入れ、地上界を批判し、天皇を相対化する。だが、かぐや姫の昇天は、仏教的な宗教性が感じられないのは、中世とは違う視野の広さからである。
   かぐや姫は美女だが、稀な「冷たい悪女」とみる男性もいるだろう。和辻哲郎は、日本三千年にこれほど「強い女」はいないといった。(「日本精神史研究」岩波文庫
   だがそうであろうか。私は悲哀・憂愁な女と思える。その悲哀は地上界(現実世界)と天上界(超越・虚構の理想世界)という両極に、二重人格的引き裂かれているからだ。
  現代語訳では、川端康成の「竹取物語』(河出文庫)があり、川端は和辻のお伽噺論に異を唱え、凄い小説・ロマンだとしている。かぐや姫天皇に残した不死薬を天皇が富士山(不死山)の頂上で和歌とともに焼き、そのた噴火の煙に成ったという結末も洒落ている。(新潮日本古典集成、野口元大校注、『竹取物語』新潮社)