『伊勢物語』

『王朝物語を読む』(その二)
    『伊勢物語


 伊勢物語は、政治的敗北者の「性的反乱」の物語であり、政治的権力獲得者(藤原氏)に対する「みやび」という文化権力形成の物語でもある。私は平安朝の「色好み」を単にプレイボーイとは思わない。藤原摂関家が、天皇家に対してセックスを権力獲得の手段とする限り、排除された不運な元皇族や貴族が、性的反乱者になることが、「色好み」を創り出す。それは「禁断の恋」というかたちをとる。光源氏は「伊勢物語」の「むかし男」の延長線上にある。「伊勢物語」が名を挙げず「むかし男」としているのは、性的反乱のため匿名にしたかったからである。
  すさまじい「性的反乱」の「禁断の恋」である。前半では、藤原家の姫君で天皇の妃になり皇太子を生む高子を拉致し逃げる「色好み」の男が、藤原家の兄弟・家臣に取り戻され、東北、関東の「東下り」という「罰」を受ける。もしこれが在原業平だとすると、皇族の血を引きながら、藤原家に排除されてきた敗残貴族の反乱である。それが「ロミオとジュリエット」に成らなかったのは、重要な日本平安朝貴族の在り方と関わる。
  後半の「禁断の恋」は、「伊勢物語」の名になったように、未婚の内親王が務める伊勢神宮の伊勢斎宮を誘惑し関係をもつ。「色好み」の凄まじさ。「むかし男」は「狩りの使」として伊勢神宮に赴いたときである。天皇家や藤原摂関家に対するたった一人の反乱と思ってしまう。「かきくらす心の闇にまどいにき 夢うつつとはこよい定めよ」
  「伊勢物語」の主題は「みやび」という。確かに東下りなど読むと都振りのない鄙びた田舎への軽蔑が感じられる。だが「みやび」は少数の閉鎖された貴族社会のなかでも、藤原家に排除されたさらに少数の貴族が、みやび心をもたない「なま心」の藤原家に対抗した人工技巧的和歌の洗練を通じてつくりだした文化権力である。「みやび」は「もののあわれ」に通じていく「敗北の文学」が核になったものである。「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」
 渡辺実氏によれば、この本に実名で出てくる阿保親王源融、紀有常らは、藤原家から排除された不運の貴族であり、風流や「雅」に逃避したという。「むかし男」が老人(翁)になり「死にいたる」下りは、自己卑下など滑稽さに傾斜していくのも面白い。なお禁断の恋に破れた高子は、業平死後に皇太后になったとき、高僧と不倫をし、皇太后の名称を停廃されたという。トラウマが残っていたと思う。(新潮日本古典集成、渡辺実校注『伊勢物語』)