『とりかえばや物語』

王朝物語を読む(その四)
とりかえばや物語

とりかえばや物語』は戦前は不道徳な物語とみなされ、嘔吐を催すという有名な国文学者もいたくらいだ。だが近年評価があがり、作家・中村真一郎は傑作とし現代語訳をおこなうし、心理学者・河合隼雄は男と女のジエンダー心理として本を書いている。この物語もポスト源氏物語の平安朝末期に書かれたものだろう。私は「境界人」の物語が、結局斜陽に成っている王朝に同一化されていく物語と読んだ。「境界人」とは、男性と女性の性別のとりかえという境界であり、唐(中国人)と日本人の混血の帰国子女の姫君という国籍の境界の両義性である。
    内気でおしとやかな息子と活発で積極的で漢文も読む娘の性別をとりかえて育て成人式までやり、貴族社会に出ていく。息子は女官として女性の東宮に仕え、娘は三位の中将として貴族の娘と結婚までする。宝塚の男役や歌舞伎の女形の原型を私は感じ、性倒錯のスリルを前半では感じる。媒介者として色好みの権中納言が登場し、女官に成っている息子に言いよる場面や、偽装結婚した娘が妻と初夜を過す場面は性倒錯の瀬戸際を感じるが、そうはならない。
     ドナルド・キーン氏は平安中期以降、貴族階級の男性は中性化し、顔に白粉を塗り、紅をさし、黛をはき、赤い腰巻を着て練り歩くようになったが、その平安宮廷の頽廃を心理的に描いた作品になっていないことを、欠点としている。(『日本文学の歴史』古代・中世編3、中央公論社
    後半になると、男に成り切っていた娘の偽装を色好みの権中納言に見破られ、レイプのように犯され妊娠してしまう。中国から帰国した吉野の宮が帰国子女の姫君2人と隠棲している宇治に、娘は逃れ子どもを産む。後半は再度の「とりかえばや」で、本来の性にもどり、役職さえ交換して、王朝の同一化に入っていく。娘は天皇に見染められ妃になるし、息子は大臣になり、帰国子女と結婚し子孫を残す。ともかく王朝の予定調和的な同一化は、前半の両義性ある「境界人」による貴族階級の変革が挫折していく過程である。農村封建領主の武士の登場も間近い。その前に貴族と武士の「境界人」の平家の挫折がある。
    加藤周一は、妊娠、無月経、吐き気など直接表現が多く、「恋愛感情から性的刺激へ、心理から生理へ、異性間関係から同性間関係へ」と源氏物語にない表現に注目している。(『日本文学史序説』平凡社)平安朝が下り坂の時期、社会内部で悲劇文学が作られず、性的刺激さえも「天皇制」の予定調和物語に吸収されてしまった日本風土を、この物語は示していると思う。(『とりかえばや物語鈴木裕子編、角川ソフィア文庫