テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』

テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』
 20世紀末から21世紀になって、グローバル時代が進むとともに、逆にナショナリズムが強大に成ってきている。東北アジアでも歴史問題の発展上に、尖閣竹島の領土問題が起こり、日中・日韓でナショナリズムが燃え上がっている。TPP加盟も、経済的グローバリズムと政治的ナショナリズムの対立の面がある。テッサ氏によれば、冷戦下の資本主義と共産主義の対立が終結した後の、新たなイデオロギー対立として、ナショナリズム原理主義多元主義の対立が、重大な脅威となっているという。それも「大衆ナショナリズムグローバル化」という奇妙な世界現象なのだという。
 日本でも90年代から「歴史教科書論争」や「歴史主体論争」が闘わされ、ナショナルなものが優勢になり、国旗国歌法まで成立した。この延長上に領土問題もある。テッサ氏は、この論争を世界的な文脈の中に置き、自身が属する移民国家オーストラリアのナショナルなものを含め考察していて興味深い。近代国民国家とともに生まれた国民的歴史という「歴史の危機」と、記憶・責任・忘却・アイデンティティを分析していく。虚無的ナシヨナリズムに対抗する「批判的想像力」の必要性が説かれている。
 テッサ氏はこう指摘している。グローバル化が、資本・雇用・思想・情報・商品などを越境化しているのに、国民国家内での移民政策、国籍政策、難民政策は第二次世界大戦以後ほとんど変わっていないと。広島の水産職場で「外国人技能制度」という名のもとに、安い労働者として雇われ不満をもった中国人が社長を殺す事件が起こった。日本の偽善的・欺瞞的な外国人労働者政策。国籍も相変わらず血統主義で開国していない。
それにもかかわらず、国民には、国際化による不安や不透明感の解決を、「伝統文化」の再発見とナルシズム的ナショナリズムに駆り立てる。私はかって加藤周一が、文化には純粋文化は存在せず、もともと国際的・雑種文化だと言っていたことを思い出した。日本は維新というなら「攘夷」をやめて、異国民族に対する「開国」を精神革命として行うべきだろう。(平凡社ライブラリー