高村光太郎『智恵子抄』

高村光太郎智恵子抄
 近代日本でこれだけ有名な詩集はないだろう。近代挽歌の傑作だと思う。高村は彫刻家だから、愛妻智恵子をヴィーナス像を彫り刻むように、智恵子像を素材から彫り込んでいった。「裸形」では、「智恵子の裸形をわたしは恋ふ」「その造型の瑪瑙質に 奥の知れないつやがあつた」「智恵子の裸形をこの夜に遺して わたしはやがて天然の素中に帰ろう」と歌う。高村が芸術家としてのデカダンな生活の浄化と、パリでロダンなど近代彫刻を学んだ世界意識と、帰国後の東京での孤絶意識を、妻・智恵子の「自然さ」「純粋さ」に救いを見いだそうとしたのは、吉本隆明の言うとおりだと思う。(吉本隆明高村光太郎講談社文芸文庫) 
 その生活が貧困に陥り、智恵子の高村と自己の芸術の矛盾が、精神的・肉体的破綻に陥り早死していく過程は、この詩集で歌われている。その病気の看病で歌った「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「あどけない話」は、夫婦愛の美しい詩になっている。智恵子を美化しすぎとか、高村のナルシズムともとれるが、愛を「自然」とつなげる素直な感性に、私は日本詩歌の伝統を見る。
 私は、智恵子死後の挽歌が好きである。「元素智恵子」では「智恵子はすでに元素にかへった わたしは心霊独存の理を信じない。智恵子はしかも実存する。」とか「智恵子はただ嬉々としてとびはね、わたしの全存在をかけめぐる。元素智恵子は今でもなほ わたしの肉に居てわたしは笑ふ」は傑作だと思う。また「荒涼たる帰宅」もいい。「あんなに帰りたがつていた自分の内へ 智恵子は死んでかえって来た。十月の深夜のがらんどうなアトリエの 小さな隅の埃をはらつてきれいに浄め、私は智恵子をそっと置く」から始まる挽歌は、妻に先立たれた夫には涙なしには読めないだろう。
 高村は短歌も作っている。「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾をいねしめず」たとえ美化でも、悲しみに満ちた美化が挽歌の十分条件なのではないか。高村を絶望と虚無から立ち直らせていったのは、智恵子夫人との「内なる共生」の持続観だったと思う。それは同時に高村の自己神秘化でもあった。(新潮文庫)