アンダーソン『想像の共同体』

アンダーソン『定本 想像の共同体』

 日中の領土問題で愛国主義が燃え上がっているとき、アンダーソンのナショナリズムの古典を読む。1991年に増補版が出た時読んだが、ナショナリズムの文化的起源や国民意識の起源を、ヨーロッパだけでなく、南北アメリカやアジア(東南アジアなど)から考えていて、「国民はイメージとして心のなかに想像された共同体主義」として、死に到る病(戦争)だという主張に感銘を受けた。
 アンダーソンが、国民を空間的に、時間的に限定された枠組である国家の一員として、主権意識にみち、国内でお互い同士不平等で、階級的に差別されていても、平等で同時性をもった友愛と同志愛で連帯できるのは、言語の共通性によるイメージの共同化にあるという主張は、いまやソシャール・ネットの同時・共同性の愛国主義を予感していたとも思う。アンダーソンがこの本を書いたときは、まだネット社会は到来していなかったから、共通言語による本や新聞など「出版資本主義」がナショナリズムの想像共同体の形成に大きな役割を果たしたという歴史的経緯を書いている。
 アンダーソンは言語の原初性を重視し、国民は血という人種ではなく、言語によって孕まれ、その歴史的な偶然を宿命性に変え、同時存在の共同性に変え、匿名の共同性に変える。だから国民の祝祭日に歌う「国歌」が、歌詞が陳腐で曲が凡庸であろうとも、言語による同時共同性から「国民」を創造すると重視されるのだ。私はアンダーソンの愛国心論を読んで、スタンダールの恋愛論の「ザルツブルグの小枝」を思い出した。枯れ木の枝が恋すると、枯れ木が氷でキラキラ光り恋情をいや増すのだ。
 アンダーソンの「公定ナショナリズム」論も面白い。支配層が民衆の想像の共同体が強まると、その応戦にナショナリズムを「公定」にし、自己の支配を防衛し、歴史的過去の帝国意識をなぞるという。今回読み直して、面白かったのは、「人口調査、地図、博物館」の章で、後期植民地国家が想像の共同体として創り出した国民意識の起源の重要性を指摘している点である。また「記憶と忘却」が想像の共同体を強める指摘も、日中両国の歴史問題を予言しているように読める。(書籍工房早山、白石隆・白石さやか訳)