夏目漱石『明暗』

夏目漱石『明暗』

      漱石の傑作で、最後の小説で未完で終わっている。人間の「個我」と「個我」の関係性が、ドラマのような会話で繰り広げられていく。そこには、ゲームのような、「作用と反作用」のセリフにより戯曲体でありながら、社会から家族、夫婦の全体構造が描かれてゆく。心理小説ではない。柄谷行人氏は多種多様な声のポリフォニー小説という。(『漱石論集成』第三文明社
     「明」の世界の下にある「暗」の世界が、この会話体の何気ないやり取りにより暗示されてくる。だが最後に主人公津田が、理由なく他の男と結婚してしまった元恋人にあいに、温泉地に向かうところから、夢の世界=「暗」の世界に入っていく場面転換は凄い。その先の恋人が泊まっている旅館の迷路構造は、「暗」の世界を象徴している。
     これは、中途半端な日本近代社会における個人の「自立」と「個我」をのりこえる「愛」の冒険物語である。津田の新婚妻お延と、津田の友人小林の排除されてゆく社会、家族秩序への反抗であり、それに同調しないで「自立」して、真の「愛」を求めていく「明」の彷徨物語である。
     お延は、愛の探求者である。自分が愛した津田の底にある前の恋人清子の存在を気づきながら、「自分がこうと思いこんだ人をあくまで愛することによって、その人にあくまで自分を愛させなければならない」という「自立」した愛の人だ。だが、お延にたいして、世間の親族や、依存した愛に生きる人々から警戒され排除され、そうした世間的家族秩序に隷属させる圧力がかかる。
    津田の妹お秀は、親族家族への服従から、愛の誘惑者・有閑な吉川夫人は、お延の愛の自立に対し、再度津田の元恋人清子を使い揺さぶりをかける。愛の操作者として危険人物である。はたして「暗」の世界にたいし、お延はイノセンスの愛で勝者になれるのか。津田が吉川夫人の操作で、清子と温泉地で再会したところで、漱石は亡くなる。
    小林は、知識人だが、経済的には成功せず、非正規な職業にしか着くことができない疎外された人物である。津田の中流階級的な「余裕」階層に嫉妬と憎悪を持つ。当時の植民地朝鮮に落ち延びていかなければならなくなっている。
    津田は勤めているが、金持ちの父親や叔父たちに援助を頼りにするパラサイト層である。小林はそこにつけ込むとともに、反抗しようとする。小林は「暗」の世界にみえるが、至純至誠の心情をもつ「明」の世界の探求者でもある。
    大江健三郎氏は、最後にお延は小林によって助けられると推測している。社会関係の枠組みからはずされている人間にもイノセンスの力が湧き出す。「暗」の世界で危地に陥っているお延が、愛の聖杯を確保しょうと、死の世界へまで乗り込んで、劣勢においこまれた苦しい戦いに助力し連合するというのだ。(『明暗』岩波文庫解説)
   吉本隆明氏は、未完の小説は、吉川夫人と小林の悪魔的な「暗」の力が、大きくなり津田とお延が、破局的な悲劇にいく方向と、罰せられるのは吉川夫人と小林で、お延がなんらかの勝利を得て、津田と平穏な生活を送るという方向とがあると考えている。(『夏目漱石を読む』勁草書房
   功利主義的な津田のエゴが、いかに変革されていくのかが重要な視点だと私は思う。自立した自己が、果たして漱石の理想とした「則天去私の愛」にたどり着くのか、それを書く前に漱石は没した。(『漱石全集第十一巻』、岩波書店