『妻を失う』

『妻を失う』(講談社文芸文庫編)


     私は、2012年に妻を癌で亡くした。その喪失感は、巨大な岩に囲まれた物質に圧迫されているようで、死に親近性を強く持つようになり、夜も熟睡出来なくなった。世界が変わってしまった。この離別作品集は、妻に先立たれた作家9人の離別と悲哀を綴った作品が収められている。読んでいると涙が流れだす。
     高村光太郎の「智恵子の半生」は、詩集『智恵子抄』を散文化した作品だ。高村にとっては、妻はデカダンな生活から再生させてくれた「同志」であり、救いの女神、永遠のパートナーであったことが分かる。その死に、だから救いがなく光もない。
     原民喜の「死のなかの風景」は、妻が肺結核で死に、遺体が火葬されるところから始まっている。妻が臨終のとき、自分の生涯が終わったという主人公は、どす黒い「魔の影」に取りつかれる。妻の遺骨と郷里広島に帰り、原爆投下という「魔の影」の劫火に襲われ、その後自殺していく原の作品は、妻と祖国の喪失感・敗戦が二重写しになって迫って来る。
     妻の死と静かな諦念を、鮮烈で即物的な文体で描く横光利一「春は馬車に乗って」や藤枝静男「悲しいだけ」は、夫婦とは何か、人生とは何かを訴えかけてくる作品で、名作だと思う。日常化された習慣の静謐な共同生活の深層には、激しく流れる愛の情念があり、それが破壊された時の悲哀も激しく回復は不可能な非条理となる。
     江藤淳「妻と私」は、64歳の妻が癌で死んでいく経緯を客観的に、情念の禁欲で描写していく。だがその日常性の描写の中に、激しい悲しみと疼くような離別苦が隠されていて、泣けてしまうのだ。江藤の場合、死別後にその苦悩は肉体に現れる。その後の自殺に至る道は、「いつも一緒にいる」という情念による「心中」とも見えてしまうのだ。
     この作品集には清岡卓行有島武郎三浦哲郎葉山嘉樹の作品も収められている。敗北していく運命を甘受しながら、それを省察して文章化する。「愛は死より強し」という言葉がひしひと感じられる作品ばかりである。(講談社文芸文庫編、講談社