磯田光一『思想としての東京』

磯田光一『思想としての東京』

   明治から昭和まで、日本近代化の矛盾と象徴の視点で東京を捉えようとしている。近代日本文学評論家の磯田らしい表現が出てくる。冒頭に森茉莉「気違いマリア」(昭和42年)の「浅草族は東京っ子、世田谷族は田舎者」の引用が出てきて驚く。大正14年内務省告示「東京都市計画地域図」が山の手を居住区、浅草など下町を工業地区に置き近代化しようとしたのが、昭和の東京の西側への膨張になる。
その歪を磯田は文学者の反応として、東京生まれの谷崎潤一郎関東大震災以後、関西に逃れ(福島原発事故で関西に避難した人の先駆者だと私は思う)永井荷風石川淳は東京の地方人に強固に武装し下町・江戸文化に固執し、小林秀雄福田恒存中村光夫らは東京近代化に嫌気がさし、「第二の江戸」として鎌倉に移住した。戦後、下町育ちの吉本隆明における新宿にたむろする文化左翼への嫌悪も、磯田は言及している。
  東京駅の落成は大正3年、旧新橋駅が汐留の貨物線になり、山手線が環状線として完結する。丸ビルの竣工は大正12年で震災改修完了が15年、昭和の帝都とほぼ同じ時期である。磯田は歌謡曲「東京行進曲」に「恋の丸ビル」が出てきて、横光利一新感覚派の登場の基盤だと見る。新宿は大正末まで豊多摩郡淀橋町であり、昭和3年に小田急線が開通し、「東京行進曲」に歌われたように、マルクスボーイがたむろする「帝都」に吸引された「ムラ」だったと磯田はいう。
   東京大空襲アメリカ占領で、マッカーサー司令部が皇居前の第一生命ビルにおかれてから、「帝都」が「米都」の道を進むと磯田は指摘している。アメリカ文明の流入は、アメリカ的自由への転換であり、これが高層・巨大ビル群から、列島改造論のエネルギーになる。東京はアメリカの「中央」にたいする「地方都市」になる、
   強者の文明への自己同一化が、1964年オリンピック都市改造となり、東京は流動都市になる。世界普遍化の願望は、東京を無個性化していく。国際空港のような無個性化が、東京の具象性あるイメージを崩壊させていくのだ。ロンドンやパリ、ニューヨークのように、伝統の上に都市を描く文学言語が東京から喪失していく。
 磯田は葛飾区亀有で育つ。山の手にはほとんど共感を持たなかったのではないか。なお下町の代表的作家が永井荷風なら、山の手の代表は三島由紀夫だろう。磯田は東京の重層性を分析したが、現在はどうであろうか。(講談社文芸文庫