佐藤忠男『大島渚の世界』

佐藤忠男大島渚の世界』


 戦後映画の代表的監督の一人大島渚氏が亡くなった。私はその衝撃的映画を数多く見ている。特に好きなのは「白昼の通り魔」「戦場のメリー・クリスマス」である。出演した佐藤慶ビートたけし、デヴィット・ボーイ、坂本龍一のクローズアップの顔が浮かんでくる。大島論は多いが、私は佐藤氏のこの本(1987年文庫版)が一番いいと思う。これまでの映画表現形式の破壊と独自の映像表現を処女作「夢と希望の街」から80年代フランス映画として作られた「マックス・モン・アムール」まで作品論を繰り広げている。だが大島氏と同時代人としての佐藤氏が、戦後映画史の歩みと共に、時代状況や大島氏の「抵抗」のあり方まで踏み込んでいることが、大島映画を明確にしている。
 佐藤氏によれば、大島映画は、一切の抑圧に反抗する自由を求める映画だとしている。その抑圧は貧富の階級の抑圧(「愛と希望の街」「白昼の通り魔」)民族差別の抑圧(「忘れられた皇軍」「絞首刑」)大人による子どもの抑圧(「少年」)教育による抑圧(「日本春歌考」)性的抑圧(「新宿泥棒日記」)家族制度の抑圧(「儀式」)地域共同体の抑圧(「飼育」)反体制運動・学生運動の内部の抑圧(「日本の夜と霧」)日本人の沖縄への抑圧(「琉球恋歌」)男の女に対する抑圧(「太陽の墓場」)セックスへの抑圧(「愛のコリーダ」「愛の亡霊」)など多岐に渡る。抑圧に飼い慣れされることから、人間はいかにして反抗者になりえて、真に主体的に自由になりえるかという難しい状況に置かれる。佐藤氏は大島映画が、執拗に犯罪に拘るのは人間の内面心理まで探究し、その歪んだ抑圧解放の反抗を描こうとしたからだという。私も大島渚の映画を見ると、ドストエスキーの小説と似た雰囲気を感じたものだ。
 この本が面白いのは1950年代の「青春残酷物語」や「太陽の墓場」が、当時全盛だった石原慎太郎裕次郎太陽族映画と同じ戦後欲望の解放と反抗を超えようとして、ブルジョア坊ちゃんに対して、最底辺の青少年の閉ざされた青春の暗い情熱と破滅を描きその間に連帯はないことを示したという指摘である。また「白昼の通り魔」という性犯罪者の欲望の深層に戦後民主主義の挫折の心理を投影したという考えや、韓国三部作や沖縄の差別と、日本と西洋の差別と劣等感により友情がいかに破綻していくかが投影されているという指摘も興味深い。日本戦後社会の深層を抉る映画を大島映画は見事に描き出したといえるだろう。(朝日文庫