緒方貞子『満州事変』

緒方貞子満州事変』

 満州事変の政策過程を丹念に辿った名著である。尖閣問題で反日デモが中国で行われたとき、ちょうど満州事変81年目の記念日(1931年9月19日勃発)と重なり中国ナショナリズムが高まった。緒方氏はアメリカ社会科学の実証的手法で満州事変という地域紛争が、いかに日本の政策で引き起こされ、それが国際関係にどういう影響を与え、国際的孤立を招き、日中、日米戦争の道の発端になったかを分析していく。
緒方氏によれば、満州事変は国内革新と対外膨張を連合させた革新将校らの、「公式の権威」(陸軍中央と政党政治)に対する「反抗」であり、「社会主義帝国主義」という「下からの国家革新運動」だったという。関東軍、陸軍中央、政府の三つ巴の中で、関東軍幕僚(石原莞爾参謀ら、なお石原参謀は尖閣問題の動因となった石原慎太郎都知事と縁戚関係はない)のクーデタ的政治謀略により、中国の主権を尊重し、国際協調路線をとろうとする陸軍中央や政府の日和見的、政策不在の弱腰を突き崩して行く過程がダイナミックに描かれている。満州事変が国民に歓迎された理由の一つとして、緒方氏は国民経済の拡大、社会福祉政策の大改革を、満州領有によって国民に享受させることを関東軍が狙っていたからであるという。「朝日新聞」はじめ大新聞は満州国承認の社説を書いた。ポピュリズム関東軍は民族協和も唱えた。
日本外交は最初日中直接対話を模索したが、中国が国際連盟に提訴したため、国際協調路線を捨て「自主外交」をとり、国際連盟から脱退していく。国連のリットン調査団報告やアメリカ・スチムソン国務長官満州国不承認主義などでは中国の主権尊重を打ち出し、地域紛争への平和維持軍派遣も検討されていたというが、当時の国際連盟ではPKOも無理だったし、いまのように経済制裁も発動されなかった。解説で酒井哲哉東大教授が、緒方氏がこの研究書以後、国連の平和維持活動に深い関わりをもったのも偶然ではないと指摘しているのも同感できる。尖閣問題も国連の平和維持軍による海域の平和的維持活動が必要なのではないか。(岩波現代文庫