シェイクスピア『リア王』

シェイクスピアリア王

     リア王は、悲劇ではなく喜劇である。確かに最後にリア王と三人の娘は死ぬし、私生児でグロスター伯爵家を乗っ取ろうとするエドマントも刺殺されるし、娘婿の公爵も召使いの棒で打たれ死んでいく。世界の解体と崩壊の劇である。
     だが、あまりにもグロテスクさが、滑稽な喜劇性を強めている。狂人と盲目の老人の自己の愚行、「無」に落とされた滑稽さがある。人間の愚行は、それを演じている当人には分からないから愚行である。人間の愚かさを、喜劇的に描いている。
     狂気や愚行と、正気と理性に二股かけてそれをサービス精神で気づかせようという多重人格者が「道化」である。リア王のクライマックスは第三幕や、第四幕の「荒野」の嵐の場面であろう。人間の正気と狂気、理性と非合理な愚行、不条理な人間社会の関係は、勝者も敗者であるゲームそのものの終焉が示されている。
     荒野の場面での狂気(それさえも偽り)の嵐での不条理のセリフは滑稽さがグロテスクに高められる。老化し無になった王が、次第に「道化」化していく。
     シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、現実社会から不在になった「老人の悲劇」だという。シェイクスピアは老化に、年老いた賢人でなく、受動性になった迷妄さを見ていた。リアを認知症で凝り固まった偏狭な頑固さとみて、規制しようとする娘二人は、悪人でなく賢明だというネジレが生じる。(『老い』人文書院朝吹三吉訳)ここにも喜劇がある。
     グロスター伯爵家でも嫡男エドガーを中傷して、勘当に追い込む私生児エドマンドの言行を見抜けぬけぬグロスター伯爵の老化が、風刺されている。オレオレ詐欺の先祖なのだ。そのため伯爵は、公爵に反逆の疑い(これも詐欺)で、目をえぐられ盲目老人になる、ドーヴァーの白亜断崖から身を投げようとして、狂気を装った乞食の嫡男の機転でたすかる。ここは笑ってしまう。
     世界が愚行に縛れていることを知っている「道化」の不条理演劇だとみたのは、ポーランドの演劇学者のヤン・コットである。ベケットの「ゴドーを待ちながら」や「勝負の終わり」と比較している。(『われらのシェイクスピアは同時代人』白水社、喜志哲雄ら訳)最大の道化は自らが道化であることを気づいていない人間という。だとすれば、リア王は道化のオンパレードだ。
英国のマルクス主義批評家・イーグルトンは、人間の自然から超越するため肉体現実からはなれた「言語過剰」が、ねじれをつくりだすという。
     リア王冒頭の三人の娘への遺産相続のとき、長女、次女が父親の過剰な言葉で愛情表現するのに、末娘コーディリアが、沈黙の無償の愛でしか答えられなかったため、愛情を言語のおべんちゃらによるギブ・アンド・テイクというリア王の愚かさにより、無財産で追放されることから、この劇が始まると指摘している。(『シェイクスピア平凡社大橋洋一訳)
    荒野のシーンの狂気の言語過剰のセリフは、その延長戦上にあるのではにか。(『リア王小田島雄志訳、白水社