イーグルトン『シェイクスピア』

テリー・イーグルトン『シェイクスピア


 シェイクスピア論は数多くある。私はヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』(白水社)とイーグルトンのこの本が現代人の視点で書かれた、すぐれた文芸論だと思っている。コットが1968年刊行だから、まだ戦後の実存主義的不条理さが前面にあったが、イーグルトンは1986年出版で、ポスト構造主義マルクス主義の視点が濃厚にでている。イーグルトンは「はじめに」で「言語と欲望と法と貨幣と肉体の相互関係にねらいを定めた議論」でシェイクスピア劇を理解しようとしたといい、ヘ−ゲル、ニーチェマルクスフロイトデリダシェイクスピアは読んでいたようだと述べている。最近の文芸批評理論を知るためにもいい。
だが引用は具体的で面白い。第一章「言語」では「マクベス」の肯定的価値は3人の魔女にあるといい、その「無意識」がマクベスの内部にこれまでと異質な他者の領域を、欲望の領域を立ち上げると言う。魔女の肉体的流動性マクベスの決して満たされない欲望を掻き立てる。歯止めがきかなくなる言語をいかに肉体という堅固な境界のなかにとじこめるか。それは役者にもいえる。第三章「法」では、法を実りある解釈で敬意を表しているのはユダヤシャイロックだとし、正義と慈悲を、肉体的一貫性の主張と言語的レトリックと対比して論じている。第五章「価値」では「リア王」で肉体を突き破る言語の過剰を論じる。過剰=余剰が「無」へと裏返る。シェイクスピア時代は物価のインフレ時代だったのも頷ける。「われわれは語るべきことを語るのでなく、感じたまま語ろう」というリア王の最後のセリフが生きてくる。
第6章「自然」では「あらし」を取り上げ登場人物エアリアルとキャリバンはそれぞれ、純粋な言語と純粋な肉体を象徴するとイーグルトンは考え、あらゆる拘束を超越する自由な生き方と、物質的限界に感覚的に隷属する生き方の象徴とし、この矛盾をマルクスの「商品の物神化」から証券取引を例で論じる。肉体と言語の融合をいかにするかは、シェイクスピアではラストの「結婚」だった。だがそれは成功したのだろうか。その有機的つながりが、抑圧的父権制植民地主義の商人イデオロギーだったとイーグルトンは述べている。(平凡社大橋洋一訳)