バルザック『ゴブセック 毬打つ猫の店』

バルザック雑読(1)
バルザック『ゴブセック 毬打つ猫の店』
  この二作は、バルザックの小説「人間喜劇」の始めに置かれた1830年代フランス革命以後の「私生活」を扱ったものである。フランス革命が「公の街路」での劇的闘争であるとすると、王政復古後のプライバシーの秘密という「私生活」の劇的闘争に焦点を転換した小説家バルザックだが、絵画でいう「歴史画から室内画への転換」に見合うものと訳者の芳川泰久氏は指摘している。
  私は、バルザックレヴィ=ストロースのような「構造主義」者だと思う。様々な親族の構造の繋がりという関係性を、多くの小説により「反復と変奏」で描いていく。次々と出る小説には、人物が「再登場」して、その関係性が繋がっていく。その通時する繋がりは、資本主義的金銭欲であり、性的恋愛欲望であり、権力・支配欲という野心である。だがレビィ=ストロースが「野生の思考」だとすると、バルザックは「神秘の思考」という相違があるが。
  「ゴブセック」は、「ゴリオ爺さん」と関係性を持っている。若いダンディな貴族を愛人に持ち、金銭を浪費し高利貸ゴブセックに巨大な借金をし、夫の伯爵の財産まで取られそうになり、伯爵は長男が成人になった時財産が返還されるよう妻と戦い死んでいく。この長男が妻にするのが、ゴリオ爺さんの娘である。
  この小説は近代フランスの金融業者ゴブセックのリアルな冷徹な金融の生態を描き、現代金融資本の萌芽を主題にしている。ゴブセックは守銭奴でなく、借金を手形で振り出して、決済期限を遅らしていくというクレジットローン業者でもある。債権手形の割引もする。
  「毬打つ猫の店」は、堅実な商店の娘が、天才肌の美術家と恋愛し結婚するが、二人の精神的な相違が3年間で顕在化する。娘は努力をするが亀裂は埋まらず、諦めの中に若くして死んでいく。芸術的な自由な創造力と、市民社会の価値観の相克を、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」のような視点で、バルザックは描いていく。(岩波文庫芳川泰久訳)