十返舎一九『東海道中膝栗毛』

十返舎一九東海道中膝栗毛』(1)

19世紀江戸の戯作・滑稽文学の傑作だ。魯迅の弟・周作人は、西欧にも中国にもこうした小説はないと評した。私は西欧のピカレスクロマン(悪漢小説)に近いと思うが、弥次北八ともに根は善人で小心だから、いたずら的小悪でしかないから、少し違う。
二人で諸国旅行をするのは、セルバンテスドン・キホーテ』を思い浮かべる。確かに滑稽さや漫才的ボケ・ツッコミの主従関係は似ているが、ドン・キホーテの壮大な騎士道イデオロギーへの風刺は、膝栗毛にはない。風刺どころか「いまここ」の絵巻物・連歌的な小さなシーンの連続コマ回しだから、ナンセンスな滑稽しかない。
私はかって九鬼周造『いきの構造』に対して、『野暮の構造』を書いたら面白いと思ったことがある。九鬼は、「運命により諦めを得た媚態が意気地の自由を生きる」と述べ、「上品―下品」「派手―地味」「意気―野暮」などの江戸美学を分析した。だが戯作にはふれていない。
     膝栗毛は、下品、野暮、地味にはいってしまう。だが、膝栗毛の「野暮」には、運命にたいする「いまここ」の現実主義、人間の愚行・失敗に対する「笑い」、狂歌の共感による和解、遊郭の意気に対する宿女郎のセックスとカネ、名所旧跡の観光の否定、恥知らずの肯定、悪がユーモアで「いたずら」に縮小する知恵などが含まれている。
     いたずら―愚行―失敗―逃亡―和解という、旅的コミュニケーションがあるのだ。そこには真面目な交通よりも、柔軟な欠点の多き人間同士の共感コミュニケーションがある。だが真面目な国文学者にはあまり評価されていない。
    たとえば津田左右吉博士の『我が国民思想の研究』(岩波文庫、7巻)では、
    「いたずらの根本は、一種の利己主義特に劣等な意味での好色と小さい利欲」という。また膝栗毛の滑稽は、「無智と不用意と衒気と自惚れとから来る不合理の行為」と述べ、野卑であり不道徳だという。色と欲の「戯れ」なのだ。
    津田博士は、小便がたびたび出てきたり、女に対する悪戯、金銭や酒食のごまかしを嫌悪している。
    加藤周一は『日本文学史序説』で、農民も武士もほとんど出てこない狭い世界しか描かないし、政治の風刺もみられないという。だが、弥次北八は、様々な人物や風俗に出会うが、自分が理解できないものに決して出会わず、江戸町人の合理的現実主義があるとも述べている。(小学館「日本古典文学全集47巻、校注・中村幸彦」、現代語訳、伊馬春部上・下巻、岩波現代文庫