折口信夫「歌の話 歌の円寂する時』

折口信夫『歌の話 歌の円寂する時』



  釈迢空という歌人であった国文学者・折口信夫の和歌論である。「歌の話」では和歌の発生を神の信仰から述べ、神のものがたり(諺)にたいし、人間の「かけあい」から歌が出てきたという。
「女流短歌史」でも古代の祭りの歌垣での男女の「かけあい」という応酬から女性の短歌が生じたと考える。古代万葉女流歌人坂上郎女を取り上げ、文学としての鋭さを指摘している。
女性の有力な表現手段として短歌は古代・中世に盛んだったが、「かけあい」から自己の独立性をもち、生活=恋愛を歌った和泉式部を折口は「気強い、がっしりした物言いを続けて、女性を卑怯のものと感じさせない」と評価しているのが面白かった.
自然描写と、恋愛の心理解剖とのからみ合いを歌として、本格的叙景歌として歌った玉葉集、風雅集における永福門院の歌を重視しているのも意外だと思った。この「女流短歌史」は江戸時代の女流の不振や、明治以後の山川登美子、与謝野晶子までいたる女流歌人論であり面白い。
「歌の円寂する時」は凄い論文である。なぜなら短歌滅亡論だからで、大正時代にこうした短歌論を書いた折口に驚く。短歌否定論として折口が挙げるのは
  ①歌の享けた命数に限りがある②歌詠みに人間の苦悩が出来ていない③真の意味の短歌批評が出てこないことをあげている。
①は古代から短歌は古典的抒情詩で叙事詩が書けていない点だという。②では偏狭な結社意識、閉鎖性、享楽的な、なまくら学問、技巧的伝統意識を指している。③批評とは短歌から作者の個性をとおしてにじみ出てくる主題の解明だが、短歌批評にはそれがないという。
これは現代にも通ずるのではないか。口語律による長編叙事詩の不在はいまも解消していない。折口の提起した短歌論は決して古くない。(岩波文庫