ウェルズを読む スタンダール『パルムの僧院』 『チエホフ戯曲を読む』アタリ『20世紀の歴史』岩井克人『会社はこれからどうなるか』 ダワー『昭和』加藤陽子『それでも日本人は戦争を選んだ』西垣通『デジタル・ナルシス』藤綱慎一郎『縄文論争』タロッイ『評伝ヴェルディ』ル・フェーブル『革命的群衆』ブルトンヌ『パリの夜』井上靖を読む

ウェルズを読む
 
宇宙戦争

① 日常生活に突然宇宙からの侵略者が現れる。
② その侵略者は知性・科学技術において人間よりも優れている。
③ 残酷であり対話は通じない。
④ 皆殺しを意図している。
⑤ 占領して永久支配を目指す。
⑥ 一人の平凡な男が廃墟の中でサバイバルを図る。
⑦ 侵略者はウイルスで全滅する。

こうした状況に対抗する術もない。それは終末の思想である。
この小説はSFではない。『ガリバー旅行記』と同じ諷刺小説である。
火星人は宇宙人でなく人間なのである。
核戦争はウェルズの時代には勿論ない。
帝国主義の時代の諷刺なのである。16世紀のスペイン人の南米インカ
帝国の征服から始まってイギリス人のインデアン征服からインドさらに
アフリカへの侵略にまでいたる。被侵略者から見れば自らが知らない圧倒的な技術力
で攻めてくる人間は、神か宇宙人に見えただろう。
もうひとつ、ウェルズのSFの特徴は逃亡してサバイバルを図るところがあり、それがサスペンスをかきたてる。『タイムマシン』でも『盲人の国』でも見られる。
ウェルズの文学は危機の文学である。

『モロー博士の島』

宇宙戦争」が「ガリバー旅行記」的だとするなら「モロー博士の島」は「ロビンソン・クルソー」的である。孤島で『動物の人間化』を図るモロー博士がロビンソンならモントゴメリはフライディである。
① マッド・サィ、エンティストが発明した創造物によって破滅していくフランケンシュタイン風の物語である。
② 生物の遺伝子操作に繋がる科学技術の力によって自然の改変が環境を変え、生物
の多様性が崩れる危機を描いた物語である。
③ 重要なのは、コロニアル文学だということである。イギリス帝国が19世紀にアジア・アフリカを植民地化した時、インドなど英国化しようとして、英語教育や英国風エリートを作り出そうとした。そうした英国化が逆に自治・独立の国民会議派を生み出した。この小説にはインドの英国化という諷刺がある。
『タイムマシン』


この物語は二つの核心がある。ひとつは未来社会でも階級・身分格差が二極化し固定して人が人を食う社会が階級闘争として熾烈になっている姿だ。もうひとつは究極の未来がエントロピーで人間が滅びた終末の風景であることだ。
つまりこの小説はアンチ・ユートピア物語なのだ。タイムマシンはそのための道具立てのすぎない。終末論的な静謐な風景がタイムマシンの行き着いたさきなのだ。
二つの身分格差間の闘争は、優美で繊細な階層が野生をもつ生命力をもつ残酷な階層に食われて行く。ここにはダーウィンの生存競争の考え方がある。とともにプロレタリア独裁ソ連スターリン粛清やナチ・ヒットラー第三帝国におけるユダヤ人の虐殺を先取りしている。

『透明人間』

疎外され社会から排除された人間が戦いを挑み、敗れ去り殺されていく悲劇である。
差別された人間が「見えない人間」視される状況を描いたアメリ黒人文学がある。
ウェルズの透明人間は、先天的な身体構造から来る差別とともに、貧しさからの脱出のために絶望から過激な手段を選ぶ悲劇である
この小説では、科学者が自分の科学力を使って自己疎外から脱出するのが新しい。マッド・サイエンチストと組み合わされているのが現代的だ。「モロー博士の島」に通ずる。
絶望から透明人間がテロリズムに走ろうとするのも現代を予言している。
(2009年10月)

スタンダールを読む


パルムの僧院
スタンダールは『情熱』の発見者である。生命力に溢れ実存的幸福の飽くなき追求者である。その追求は自己を超越していくから、それは『冒険小説』になる。「パルムの僧院」は
前半はナポレオンとともに戦おうとする戦場の兵士の冒険である。後半は殺人を犯し、牢獄に幽閉されながら恋愛という冒険に命を賭けようとする。
この小説は行動のダイナミクな連続からなっており、アクション映画にも最適である。
ワーテルローの戦場場面から逃亡へ、女優とのラブアフエアーで嫉妬した男優との争いと殺害、そして逃亡と逮捕、パルムの城塞の高塔への幽閉、城塞司令官の娘との命がけの恋、
毒殺から逃れ高塔から綱にぶらさがりながらの危険な脱出、サンセベェリーナ公爵夫人の教唆によるパルマ大公の暗殺…手に汗にぎり冒険の連続だ。
 だがこの小説がオペラ的、メロドラマ的、アクション映画的を超えているのはなぜか。
冒険とは閉ざされた自己を超越していく試みである。「パルムの僧院」の主人公ファブリス
はこうした冒険者である。実存的自己の超越者である。その究極な追求が『恋愛』なのである。恋愛によって自己を超越し成長して行く恋愛教養小説といつていい。閉ざされた狭い自己の安定から超越していく。恋愛とは自己と異質な他者の発見と主客合一の欲望である。スタンダールが「虚栄心」を嫌うのは,自己美化であり、虚偽の超越であるからだ。
この小説のすぐれた描写が丘から見下ろすワーテルローの戦場の場面や、パルムの牢獄の高い塔から眺望する平野や河川の流れであるのは「高所」へのスタンダールの欲望からだ。超越の欲望が高所への好みに具象化される。
自己超越としての愛はサンセヴィリーナ公爵夫人のファブリスへの愛にも見られる。スタンダールには、年上の女性への思慕と庇護的な愛が描かれている。だがこれはマザーコンプレックスと少し違う。騎士道文化の宮廷愛の反転である。公爵夫人の情熱愛はすごい。
ワーテルローの戦場でもファブリスは酒保の年長の女に救われる。
パルムの僧院」には、専制君主国の政治権力の社会状況が描かれている政治小説でもある。パルム大公の絶対王政権力の在り方とその恐怖と不安、モスカ伯爵のマキアベリ的な政治的行動、ラシ検察長官の出世欲と警察権力の恐怖政治などが見事に描かれている。
(2009年10月)





国立歴史民俗博物館編『縄文はいつから』『弥生はいつから』
国立歴史民俗博物館は、年代測定の革新で(炭素14測定法など)でこれまでの縄文、弥生像を変えつつある。この企画展示のカタログはその成果の一つである。
第一は縄文時代の日本歴史での基盤文化としての重要性の再認識である。縄文の年代はどんどん遡り1万5000年ほどの氷河期の最中にまでになり世界最古の土器ともいわれる縄文土器を生んだ。また弥生も500年も遡り前10世紀からという結果がでている。だとしても縄文時代という狩猟採集社会が1万数千年間という長い期間続いたことになる。
第二は弥生は水田潅漑稲作という輸入技術文化であり九州に上陸してから1500年かけて緩やかに東北にまで拡がった。縄文とは棲み分け共存の時期が長く、縄文対弥生という二項対立はあり得なかったという主張である。征服戦争というよりも相互交流という考えだ。最近の考古学では『豊かな縄文』が主張されている。つまり高度経済成長のような急激な短期間での縄文の駆逐ということはありえないことになる。急激な古代国家の形成という通説は成り立たなくなる。
 第三は日本列島の歴史における特徴である文化複合が先史時代から現れている。長い縄文時代のため三者鼎立という状況が続いたことである。狩猟採取の縄文地帯、水田稲作の弥生地帯、稲作が入らない後期縄文,貝塚地帯(北海道、沖縄)の三地帯の共存である。
 国立歴史民俗博物館の最近の研究成果は、これまでの通念を変えつつある。それが面白
い。
 歴史考古学では今後の研究でさらなる発展はあるだろう。だが土器の美的形式から見ると、縄文と弥生ははっきりと違う。哲学者谷川徹三が「縄文的原型」と「弥生的原型」に日本文化の理念型を分けた。確かに縄文土器は力動的で不合理を含み怪奇的・バロック的である。それに反し弥生土器は静的であり合理的ですっきりして機能的だ。それは違う文化複合があったことを考えさせる。弥生は在来縄文と異なる渡来文化複合である。それを在来人が次第にうけいれていった。だから野生の文化だった縄文文化は滅びの文化である。 
水田稲作という先進人工技術文化に駆逐される運命にあつた。弥生稲作は人類史の永続革命の一環で日本列島では千年以上かかった。
 
藤尾慎一郎『縄文論争』を読む

この本では縄文人は、現代日本人とは違う文化心性をもつという視点から書かれている。
縄文稲作の存在やなぜ弥生稲作が始まったかの解明は面白い。「世界の中の縄文文化」が中でも読み応えがあった。考古学者チャイルドの西アジアを典型とする新石器時代は、農耕と牧畜の始まりという定義だとすると縄文は当てはまらない。そのため狩猟採取と農耕という分割だけでなく,遊動か定住かといったメルクマールを出す学説も現れた。
 藤尾氏は新石器時代の世界を多様性の視点から見直そうとする。そのためには経済生産の視点だけでなく文化複合として捉え直そうとする。穀物儀礼栽培説や貨幣説も視野に入れている。その上で東アジアの後氷河期の適応としてクリやトチノキの栽培による森林型新石器の時代を想定する。それが縄文だというのだ。西欧でも大陸の周縁のブリテン島でのトーマスの学説である「穀物栽培は知っていたが儀礼のために作り、農耕に発展しなかった文化」と縄文を比較している。
  縄文時代が東アジアの森林植物栽培・採取だとすると、あく抜きなどの土器の重視やなぜ縄文が1万年以上も持続したかもわかる。地域の環境に見合った「豊かな縄文」と言った理想像は無意味だとしても、弥生農耕が日本列島の世界史への幕開けであり、「第一の開国」だった。だが土着としての縄文は底流に流れている。その反復が日本史では繰り返される。{講談社}(2009年11月)

岩井克人『会社はこれからどうなるか

会社とはなんだろうか。法人というヒトでありモノでもある両義性のある存在である。
日本では終身雇用で会社にほとんど一生を捧げる人も多い。70年代には「日本的経営」つまり終身雇用・年功別賃金・企業別組合が日本の高度経済成長を支えたともいわれた、
 岩井氏は「差異の経済学者」である。資本主義の利潤は差異からしか生まれないとする。
商業資本主義は遠隔地の間の差異によって利益を得る。産業資本主義は労働生産率性と実質賃金率の差異から利潤を得る。ポスト産業資本主義では新しい製品や技術や組織・販売といった「新しさ」の差異が中心になる。知的独創性による利益というわけだ。
 資本主義は、自由な活動と結びついている。人間の自由を求める無限の欲望はその媒介物である貨幣で作られる。だが無限の欲望を媒介する貨幣が自己目的になると、そこに貨幣の自己循環が起こり不安定になる。それをどう現実的に正していくのかが岩井氏の視点だ。岩井氏は修正資本主義者だといっていいだろう。
 そうした理論前提に立って会社を分析したのがこの本である。その場合西欧で誕生した株式会社を輸入し作り出した日本型会社の分析があり、そこが面白い。岩井氏の言葉を借りるとすると「普遍と特殊の非対称性」のなかで作られたのが日本的会社だと言う。会社について法人論争がある。法人名目説(モノ)と法人実在説(ヒト)の間の対立である。アメリカの普遍標準の会社は名目説に近くモノとして扱われ株主主権が強くなり、会社買占めもおこる。所有と経営の分離になる。日本型会社は戦後アメリカ型を強めた。が法人実在(ヒト)の立場が強い。持ち株会社や終身雇用による人的組織育成・人的資産の重視が特徴だ。岩井氏の考え方はヒトでありモノであるという両義性で会社をみる。日本の会社が文化的にみると「家」的要素を起源としているからだ。
 岩井氏は21世紀の会社は有形資産から人による知的資産の重要視だと考える。ヒトの立場の重要視である。だからといって日本的経営への復古ではない。株主主権を取らなかったことは良かったが、ポスト産業資本主義の時代を作り出して行く自由で自律的な知的資産の創造には遠い。岩井氏の提案はNPO方式の導入や個性的企業文化や、会社の新陳代謝や起業意欲などをあげている。これが果たしてポスト産業資本主義の会社のあり方として有効かどうか分からない。
 だが21世紀の会社が労使対立は残しながらも自由で自律的な知的人間の連帯組織になって行くと思われる。
平凡社
(2009年12月)




ジヤック・アタリ『21世紀の歴史』

ソ連崩壊以後フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」やハンチントン文明の衝突」など世界の現状分析と近未来の予測をする文明論が出された。アタリの本もそうした文明論である。資本主義はいかなる歴史を作ってきたかという過去の分析と、21世紀の世界はどうなるかの予測の二部構成になっている。
 21世紀の予測は面白い。社会主義の挫折以後、自由な経済市場と民主主義の発展が未来の核となっている。アタリもこの更なる市場民主主義の発展に未来を見る。またテクノロジーの進歩もそれを促す。ポスト産業社会では知識と情報が起動力になる。アタリはかっての未来学とは違いばら色の進歩を単純に描かない。まず市場経済が国家の枠を超え世界を席巻する「超帝国の時代」が来る。富の獲得のため資本主義は極端まで行き着き、富と貧困はじめ多くの弊害が出る。ついで「超紛争の時代」が続く。水や石油など希少資源で争い、グローバル化を暴力で押しとどめようと地域紛争も多発する、海賊、テロなども進歩した恐るべき武器で争われる。
 2060年ごろになって、世界的な「超民主主義の時代」が始まるとアタリは予測する。
トランスヒューマンという愛他主義にもとづく世界市民が「クリエーター階級」になる、世界規模のインテリジェンスが人類の共通資本になる。企業も利潤追求でない社会の幸福と調和を求める調和重視経済になる。
 だがいくつか疑問がある。アタリの重視する都市とノマドという未来の核となる概念についてである。アタリは世界史を読み解くため「中心都市」という頭脳とマネーが長期持続する都市を市場民主主義の中心地とする。労働力と農産物を提供する「周辺都市」と区別する。だがここに生じる格差はどうなるのか、民主主義とどう関係するか不明だ。
 またノマド(遊牧民)と定住民とを未来世界の階級として考えている。アタリはノマドを重視している。世界を動くノマドは確かに今後増えるだろう。エリートビジネスマンや学者・芸術家・芸能人・スポーツマン・科学技術者・政治家という「超ノマド」が、下層ノマドや定住民との間に生じる格差は果たして民主主義とどう関係するのかわからない。市場と民主主義を簡単に両立させるところに問題が残る。
{作品社}
           (2009年12月)
 
西垣通『ネットとリアルの間』

ネットが私を壊すという。ネットによって身体をうしなった私が根無し草の人格になり『もう一人の私』となって漂う。身体的・言語的な「リアルな私」が消え、空っぽな情報処理部品の自分を感じるとき、デジタル・ニヒリズムが生じてくるというのが、西垣氏の診断だ。情報とは世界を記号化しパソコンでデジタル化して伝達して行く。情報社会とは 、いま「心と脳とコンピュータ」が一致してしまう社会だといえる。
 西垣氏によると21世紀は『情報学的転回』が起こると言う。この場合西垣氏の言う『情報』とは記号化・機械化したものではない。生物としての人間、生命情報の重視である。生命体として身体や感性さらに社会的組織を含みこんだものだ。生命的組織のコンピュータが未来のネットだという。当然西垣氏は右脳の重要性を論じている。将来のコンピュータは思考機械でもなく対話機械でもなく「有機機械」だともいう。それは他律的な開放系ではなく、自律的で自己言及な閉鎖系のシステムだと考えている。
 情報処理の部品化への西垣氏の危機感はよくわかる。そのための生命論的転回をコンピュータに求めることも理解できる。だがそうしたコンピュータが出来たとき、人間そのものは何処へいってしまうのだろう、「私」は何処にいるのだろう。人間は情報を求める生物でその欲望が情報機械に投影される。それが物神化して人間を取り込んでいくのは、貨幣と同じである。コンピュータとは「道具」だという常識が必要である。たとえ脳機能の写像だとしても。

(筑摩書房)(2009年12月)

西垣通「デジタル・ナルシス」

 20世紀に情報科学の先駆者たちの肖像を描きながら、思考する機械とは何か、人間とは何かを問いかけている。ノイマンチューリングバベッジ、シャノン、ベイトソン、ウィーナーいずれも面白い。西垣氏はサイバネティクスのウィーナーを巨人としているが、私はチューリングが面白かった。ケンブリッチ大出身の子供っぽく純真な天才数学者は、英国情報部のナチの暗号解読者で同性愛者、コンピュータ製作の先駆者である。その死は謎で青酸カリ服毒によって41歳で死んでいる。
 西垣氏によれば、チューリングはありとあらゆる記号操作を実現する機械から、人間と機械の同質性実現のため、生殖する機械、つまり愛=機械の実現を目指したという。機械と自然の混交。人間は形式化=記号化の欲望を機械という媒介物によって実現しようとするのだ。情報機械が欲望の媒介物になり、自己の欲望がデジタル化され、その機械に自己愛(ナルシス)が生まれる。西垣氏がこの本で描いた情報科学者はデジタル・ナルシストとなる。自動機械人形の時代が始まっている。21世紀以後の人間を考えるための本だといえよう。
       {岩波書店}(2009年12月)



タロッツイ『評伝 ヴェルディ


伝記は、その人物の生きた時代状況や性格、家族と生い立ち、創造した仕事,他者とのかかわり(恋も含む)がうまく描かれていると、小説より面白い。この本はそうした要件を備えている。第一部ではロンバルディアの片田舎で宿屋の息子に生まれたヴェルディ
裕福な卸商人の援助で音楽修行に励む。だがミラノの音楽院から入学を却下されてから苦難が始まる。オペラはことごとく不評で貧乏生活の中、妻と二人の幼児を亡くす。ヴェルディ・オペラの怒りと苦悩の情熱はこの経験から一生消えない。最初の勝利としての「ナブッコ」は怒りや苦悩や残酷な感情が躍動感をもって音で表現された。ヴェルディの初期の傑作は、せむし男(リゴレット)ジプシー女(トロヴァトーレ)娼婦(ラ・トラヴィアータ)と社会から疎外された人たちが主人公だ。第一部は底辺から這い上がって行くヴェルディのサクセス・ストーリーとも読める。 
 第二部になるとヴェルディは、成功で故郷に土地を買い地主になり自分でも農作業に取り組む。お金持ちで保守的になる。イタリアの国家統一運動と重なる社会状況で一時は上院議員にもなる。ロマン的ナショナリスト。だが不機嫌で孤独を好む彼は自分の農場に閉じこもる。恋愛の末、結婚した歌手ストレッポーニの苦悩、さらにソプラノ歌手ストルツとの愛人関係が書簡などでよく描かれている。イタリア統合以後の政治への幻滅、新しい交響楽的オペラの製作、ワグナーとの緊張関係など、第二部の方がより深く近代イタリアとヴェルディの相互作用がよく書かれている。「アイーダ」はイタリアの植民地主義を背景に「権力と愛と死」の三角形(ピラミット)が音に凝縮されている。ラシーヌの古典悲劇や近松浄瑠璃の世界を私は音楽で感じた。
 ワグナーがノマド(漂泊民)でアナーキスト的なのに対し、ヴェルディは定住民で農村の大地に根ざしている。どちらも反資本主義的だが、ワグナーは都市民でありヴェルディは農民である。
        (草思社)(2009年12月)


ルフェーブル『革命的群集』

フランス革命を民衆運動の視点と社会史の見方で分析した古典的歴史書である。個人と集団の相互作用に集団心性という心理・精神の動きから見たもので面白い。フランス革命時代の農民の集団心性には貴族階級に対する「大恐怖」(不安と希望も含めて)があつたと指摘するなど民衆運動を、ル・ボンのような動物的群集活動とは見ない。知性とともに感性を重視する歴史の考え方がある。
 ルフェーブルは民衆運動を捉えるのに個人と集団の心的相互作用を重んじる。イデオロギーといった知的観念の底にある集団心性に注目したことは「階級」という概念を豊かにしたと思う。フランス革命を市民革命といった単純な見方に対して、農民革命の視点やパリの職人、労働者、主婦層などブルジョア以外の集団心性のあり方で分析したのが『1789年―フランス革命序論』である。
 ルフェーブルによれば民衆運動を、純粋な群集としての集合体,半意識的集合体、より自覚的な結合した『結集体』の三類型に分けている。革命的群集とは結集体なのである。だがフランス革命下パリ民衆の暴力性や残酷さは何なのだろうか。それまでの抑圧への感情的反動(不安や恐怖や嫉妬など)が大きく影響している。その心的伝染作用は群集心理から説明できる。
ルフェーブルのいう「結集体」と言うよりは「群集」というのに近い。あれだけ左右に揺れ動きナポレオンの登場までの激動は市民の理性的運動だけでは解明できない。

レチフ・ド・ブルトンヌ『パリの夜』―革命下の民衆

 18世紀末フランスで農民階級から印刷工そして作家になった特異なレチフによって、革命下パリの民衆の動きを描いた本である。夜に町を観察する「ふくろう」のように歩き廻る。さまざまな民衆のあり方が生々しく描き出される。バスチーュ監獄攻撃やウェルサイュ行進さらに9月虐殺などの民衆の行動が臨場感をもって描かれていて迫力がある。
 レチフの民衆感は農民や手工業者には同調的だが、都市下層民にたいしては扇動されたとはいえ、残酷な暴力を振るったとして批判的だ。両極端はあい通ずというわけで貴族など特権階級の暴力的残酷さと、民衆の街頭での暴力が対比されている。理性と啓蒙主義の底には情念の炎が煮えたぎっている。それを革命が解き放つ。
       (岩波文庫)(2010年1月) 
井上靖を読む 
 

井上靖本覚寺遺文』
 井上の歴史小説は、①乱世の文学②亡国の民③漂泊者④運命の恋⑤師とする者の追憶
⑥「歴史其の儘」と「歴史離れ」の中間に想像力による娯楽性を置くなどの特徴がある。戦後文学の一環としての、虚無と冷徹な砂漠的な醒めた視点による歴史小説なのだ。
 この小説は、晩年のものだが千利休切腹後に弟子の本覚坊がその死の謎に迫ろうとする。利休の茶とは乱世の茶である。漂泊民の茶である。山上宗二を左翼とし古田織部で終わる。それは信長、秀吉、家康の時代と重なる。茶の儀式は人の死生観と繋がる。実存的な存在の儀式である。宇宙の中で心の実存的会得が一杯のお茶を飲むことに象徴されてある。
 「枯レカジケテ寒カレ」「何事にも酔わぬ、醒めた心」「無ではなくならん、死ではなくなる」といった言葉が、この小説で利休の茶の真髄として表わされる。
 それに対し権力者の茶は、スペクタクルであり政治的イベントである。その齟齬が利休、織部、宗二の悲劇的最後の根源にあることを、井上は言いたかったと思う。
 芸術と権力との相克小説とも読めるし、茶道思想小説とも師弟小説とも読める重層的構造になっている。本覚坊が見る夢で、利休が冷え枯れた一木一草ない長く続くかわら道を歩いて行く描写はよい。
          (講談社文庫)

井上靖孔子
 亡国の民で孔子が流浪していた時に雑役で一緒だった「弟子」が孔子を追憶する。孔子と弟子の関係や、孔子の思想―天命や仁、理想的政治のあり方などが織り込まれていて面白い。中国古代の乱世の思想を描いているが、亡国の民が故郷を思う心情がよく描かれている。井上が日本の敗戦とアメリカの占領時代を経験した戦後文学者だということがわかる。
 孔子を醒めた、突き放した視点で捉えるところが井上文学である。孔子の文献学的研究や「論語」解釈は数多くある。そうしたものを踏まえて戦国時代の亡国の民と重複させて孔子を捉え小説化したのが新しい。
        (新潮文庫)
井上靖敦煌
 スケールが大きい史実小説である。井上には砂漠の思想と辺境の思想がある。それは人間の歴史のアレゴリーとして表わされる。戦後文学の中でこうした思想を持った文学者には安部公房がいる。この二人の砂漠と人間の在り方を比較すると面白い。
安部は中国・東北省(満州)生まれでその半砂漠的風土が原体験になっている。井上は金沢の高校時代に体験した日本海砂丘日本海の青黒い潮と重なって砂漠のイメージを形成している。満州の春は砂塵とともにやってくる。安部の砂漠は破壊とともに新しい創造の源である。井上の砂漠は海のイメージであり砂丘は波である。井上の砂漠は有機体のように生きている。時間的には人間の歴史に比べ「永遠」である。小さな有機体である人間の相克も押し流して行く。
敦煌』と言う小説は砂漠と辺境の中で、人間の作り出す都市国家が砂漠的人間たちの抗争のなかで壊滅していく物語である。構図は『楼蘭』と同じである。虚無的宇宙観がある。「末期の眼」で見た歴史がある。亡国の物語であるが、登場する人物も魅力的だある。
男を変える異国の女・運命の女もでてくる。だが井上の描く人物が砂漠の砂粒のように
見えてくるのが不思議である。(新潮文庫
おろしや国酔夢譚
18世紀にロシアに漂着し10年過ごし帰国した大黒屋光大夫の物語である。『天平の甍』の逆物語で帰国出来たのは漂流民16人のうち2人だけだった。井上はシベリアなど光大夫の過ごしたロシアの地を旅したため、抑留中の土地の描写に迫力がある。氷と吹雪の世界は「砂漠」と同じである。そのなかで帰国に尽力を尽くすラクスマンが生き生きと描かれている。帰国した江戸で幽閉され、一生を終わる光大夫の孤独と徒労と諦念は、母国の社会も抑留されたロシアよりも「砂漠的」状況だったことである。ここに井上文学の核がある。井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』のどこか明るい開放感がある飄逸さとは違う。
(文春文庫)(2010年2月)
歴史小説の周辺』
井上の歴史小説についての考え方を示していて面白い。井上の歴史小説は歴史的出来事の史実に基づくため文献資料を調べるのは当然だが、同時に歴史の現地に調査旅行をおこなっている、この本でも揚州やシベリア、西域、韓国などの取材旅行が新聞記者だった井上らしい客観的視点で書かれている。だが歴史小説の魅力はロマン的想像力にある、史実と想像力の相関関係の強弱で歴史小説は性格が変わる。この本にも収録されている大岡昇平との「蒼き狼」論争で大岡が史実重視から井上の想像力が走りすぎ、通俗ロマン物語に陥る危惧を批判する。それは確かにある。「淀どの日記」「戦国無頼」「風林火山」などにはそれはある。だが史実を土台にして想像力で膨らまして行く井上の歴史小説は、大岡の歴史学者のような『歴史其の儘』よりも面白い。だからといって井上の小説が『歴史離れ』しているわけではない。その境界の両義性が井上文学である。
講談社文芸文庫)(2010年2月)
加藤陽子『それでも日本人は戦争を選んだ』

 

日本近代を戦争の歴史で説明したもの。わかりやすい。加藤の立場は日清・日露戦争を日本の自主独立を欧米に認めさせ、不平等条約を改正させるための戦争と捉えている。また欧米の帝国主義の代理戦争とも見ている。日本近代が自国の独立と安全保障のため、植民地を獲得していった特異性が確かにある。日清・日露戦争が祖国防衛戦争だった側面はある。だがそれだけだろうか。朝鮮は自国防衛のため利用する植民地だったのだろうか。
 明治維新という近代化のための原始的蓄積に日本国内だけでは達成できない不徹底性があった。(資源,人口、市場、封建制の解体など。)日本の戦争は他国を利用した近代化のための戦争なのだ。加藤の本では第一次世界大戦の重要性が指摘されている。独立のため、近代化のための戦争から帝国主義侵略戦争に日本の戦略が高度成長していくからだ。国際情勢の変化がある。だが日本の近代化は輸出市場や資源獲得の海外輸入に依存せざるをえない。日本の独立・近代化は最初から東アジアを必要とし、依存していた。それを自由貿易でなく武力で成し遂げようとしたことが特異である。国内近代革命の不徹底さが戦争を生んでいった。
 加藤の本でも太平洋戦争がどうして起こったのかは明解にはわからない。海外依存が八方塞がりになったときの自己改革ができず他者を巻き込んだ『自殺』主義とも思える。
朝日出版社)(2010年2月15日)

チェーホフの戯曲を読む『イワーノフ』
 一幕ものの喜劇的ボードビルを書きながら、チェーホフは深刻なロシア知識人の悲喜劇を書く。イワーノフは挫折し、罪の意識に苛まれている人だ。ユダヤ女性と結婚し人種平等や合理的農村経営など進歩的実践が挫折し、無用人となり妻も病気になり最後にピストル自殺をする。女主人公サーシャは挫折し消沈したイワーノフをひたすら愛する。救おうとする愛は喜劇的だ。それがイワーノフの桎梏になる。もう一人の喜劇的人物は医師ノリヴォーフだ。理性的だが偏狭で教条的だ。若いチェーホフが正面から描いた重いドラマだ。(米川正夫訳・角川文庫)
『かもめ』
この戯曲は「ハムレット」のパロディである。若きトレーブレフは女優の母とその愛人の有名作家の保守的世界を批判し新しいドラマを作り出そうとする。が評価されない。オフィーリアであるニーナは死なず母の愛人である作家のもとに逃げる。だが捨てられ挫折しどさ廻りの女優として生きていくたくましさをもつ。トレーブレフは『君は自分の道を発見してちゃんと行く先を知っている。だが僕は相変わらず妄想と幻影の混沌のなかをふらついて、一体それが誰に、なんのために必要なのかわからずにいる。』といって自殺する。ハムエット的なトレーブレフよりも、終わりなき日常を生き抜こうとするニーナにドラマがある。
神西清訳・新潮文庫
『三人姉妹』
 評論家・佐々木基一チェーホフ劇について「到着と出発」という形式と事件も葛藤も起こらず、舞台上なんら解決もないと述べた。(『私のチェーホフ』)『三人姉妹』はその典型である。夢を持ちながら実現できず挫折しながらも、生きる意志で女性の自立を追及する。もちろん舞台の底流には不倫や三角関係による決闘がある。だがそうした事件も舞台という終わりなき日常の流れに流されてしまう。チェーホフの劇に登場する様々な人物一人一人の性格・生き方・セリフが面白い。脇役が喜劇的であってアンサンブルになっている。(神西清訳・新潮文庫
チェーホフ一幕物全集』 
 ボードビルは笑いを教え、笑うものは健全だとチェーホフはいう。深刻な葛藤を笑いで描くことは問題解決の第一歩だ。男女の葛藤・対立が喜劇的状況で高度な愛に変わる。いや、恋愛とは自分と他者との葛藤を、笑いを媒介として融合させることだ。『熊』や『結婚申込』は傑作で読んでいて笑ってしまう。『煙草の害について』も煙草の害の講演にかこつけて、女学校を経営する口うるさい妻との葛藤を笑い飛ばす。深刻な問題が笑いで破綻を免れる。『路上』や『白鳥の歌』は挫折した浮浪者や老齢の役者の悲哀を描いているが、チェーホフにかかると,哀歓をもった笑いになる。(米川正夫訳・岩波文庫
桜の園
チェーホフの戯曲は舞台裏でドラマが起こる。だが舞台上では平凡なドラマなき静かな日常が過ぎて行く。私が演出家なら舞台を二重構造にして日常の深層をも演じさせたい。この戯曲は登場人物の性格の深層が隠されていて、そのために人間関係がばらばらでありコミュニケーション不全の演劇になる。桜の木が切り倒されて行くのは、その象徴である。(神西清訳・新潮文庫
(2010年5月)

ジョン・W・ダワー『昭和』
論文集のため、ダワーのこれまでの『敗北を抱きしめて』や『容赦なき戦争』『吉田茂とその時代』の考えをなぞっている。日本が戦争を乗り越え継続した社会変革の強調である。戦時中の経済や政治など制度改革の戦後の開花という見方をとる。農地改革がその例としてよく挙げられるが、国家の経済の介入など「開発資本主義・仕切られた資本主義」という考えは戦中にあると見る。チャルマール・ジヨンソンなどアメリカの研究者に多い。日本でも「40年体制」論がある。政治への官僚支配は戦前の遺産で、吉田茂池田勇人岸信介佐藤栄作に繋がる。吉田茂論の眼目も戦前の吉田のあり方が強調される。
 日米関係も戦前との増幅が見られるという。ダワーは戦争中の日米の相手イメージに関する研究でも業績がある。この本でも戦時中の日米映画での相手イメージの分析があり面白い。ハリウッド映画が敵国日本を未開野蛮な残酷さで描くのに対し、日本映画は純潔で自己犠牲的日本人いう「善き日本人」を描くのに専心するあまり、敵に対する関心が希薄と言う指摘は示唆をうける。アメリカ側の人種差別的な「リトル・イエロウマン」のような戦時イメージが、70年代の貿易摩擦の時代に姿を変えて現れるのも連続性として注目される。ダワーは戦後日本を「従属的独立」と言う宙ぶらりんな分裂的状態として捉えておりアメリカの傘の下で「こどもイメージ」があると指摘している。依存・親的保護の快さが戦後日本にはある。
第7章の「日本人画家と原爆」や戦時日本の原爆開発研究を取り上げた「ニ号研究とF研究」は、アメリカの研究者がここまで書けることに敬意を表したい。
みすず書房)(2010年5月)