バルザック『知られざる傑作』

バルザック雑読(2)
バルザック『知られざる傑作』 

  バルザックの短編も面白い。激しい情熱とその挫折を描いた短編がいくつかある。「砂漠の情熱」は、エジプト戦線で囚われた兵士が砂漠に脱走し、ナツメヤシある丘の洞窟にかくれ、そこを住みかとしている牝豹と数日間恋人のような同居生活をするが、ちょっとした誤解から、短剣で豹を殺してしまう。不思議な超自然的な情熱と挫折。なにかアンリ・ルソーの幻想画を見ているようだ。
  「知られざる傑作」は、私にはドイツの幻想小説家・ホフマンの「砂男」や「クレスペル顧問官」といつた短編小説を連想させた。想像力という偏執した情熱の絶対の探求が、虚構と現実の境を溶解させてしまい、死に至る病となる物語である。勿論バルザックロマン主義というより、写実主義的であるが。
  老画家フレンホーフェルは、10年間にわたり画架に女性像を描いている。彼は、芸術は単なる自然の模写でなく、生きた生命の表現が重要という考えで、その理想の絶対の探求を追い求めるが、人間性の限界に突き当たり完成できない。私は、この老画家の語る絵画論が後の印象派の芸術論に近いと思った。
  老画家は、親しい絵かき仲間にその絵を最後に見せようとするが、そこにはなにが描かれているか不明で、色彩を塗りたくった画架しか仲間には見えなかった。絶望した老画家は画布を破り、自殺してしまう。自己の「イデア」を理想とし、それを創り出そうとする創造者の苦悩が、この短編には描かれている。
  バルザックには、金銭欲であれ、権力欲であれ、恋愛欲であれ、その情熱の権化と化した人間が、追いつかない人間の限界により、挫折していく小説が多い。それをホフマンのようにロマン的幻想としてではなく、現実の近代資本社会のなかで描こうとしている。企業家、科学者、芸術家、政治家など近代人間の無限の欲望を、見事に捉えている。(岩波文庫、水野亮訳)