服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』

服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』

  日本中世史学者の被差別民衆史の力作である。第66回毎日出版文化賞を受賞している。服部氏によれば、中世の非差別民は「河原ノ者」がおり、皮革制作が主のしごとであり、刑吏、清掃、井戸掘り、作庭などの土木工事、野犬狩りの仕事をした。「非人」は物乞いで喜捨を得る人々で、ハンセン病(ライ)患者や世話する人々からなり、弓弦制作や、大寺院の軍事力にも編入された。声聞師陰陽道や芸能者、占い師などからなるという。
 服部氏の本を読むと、「賎」とされた人々が、大寺院(東大寺興福寺清水寺など)や戦国大名など武士層という「貴」という階層と密接な関係にあったことが明らかになる。服部氏は「賎」という非人身分で生活していた豊臣秀吉が、「貴」である関白になれる貴賎逆転が、戦国時代と明治維新という二大流動時代にあったという。服部氏は武士の「犬追物」に河原ノ者が、野犬・飼い犬狩りをし、共同して数百匹の犬を集め、武士が弓で射当て、死骸の清掃から食肉まで担当したことを史料から描いている。
 戦国大名徳川家康まで、「賎」の皮革民との関係は軍産共同体だったといえる。馬は騎馬戦に必要であり、動物の革は、鎧、馬具、刀、履き物、太鼓の革など軍事物資だった。土木工事にも必要だった。この本では、非人宿があつた清水坂や北山。奈良坂、における東大寺興福寺延暦寺清水寺の非人を囲い込む闘争が書かれている。
 私が興味深かったのは、秀吉が清須という商業都市で、非人村で実父も分からず、猿のように栗を食べる猿真似大道芸をする路上の少年だったことを検証している点である。さらに秀頼非実子説を綿密な史料で検証していく。
  秀吉は52歳まで多くの妻妾がいたが、無精子症なのか子どもが生まれなかった。服部氏は、秀吉の内諾のもと非配偶者間受精で鶴松を設け、その夭折後は淀君が秀吉に明確な同意を得ず、大阪城に多くいた「賎」の陰陽師と思われる人と契り妊娠し、秀頼を産んだとする。秀頼誕生後、秀吉は陰陽師の処刑や弾圧をしたという。豊臣家滅亡もそうなら良くわかる。だが、歴史学界には、秀頼実子説も強い。被差別民衆史の史観からみると、服部説も真実のように思えてくる。(山川出版社)