福田千鶴『豊臣秀頼』

福田千鶴豊臣秀頼

    今年は大阪の陣400年である。ということは豊臣秀頼没後400年ということになる。23歳の死は「悲劇の貴公子」という伝説を呼んだ。凡庸な秀頼と淫乱な母茶々(淀殿)という見方は、徳川中心史観が作り出したという福田氏は、客観的な歴史家の視点で秀頼を描き出している。
    福田氏は、残っている数多くの古文書や、秀頼の書状、古歌。漢詩、神号佛号などを参照して、秀頼が軟弱な二世ではないことを示していく。慶長16年(1611年)に19歳になった秀頼は、徳川家康と二条城で会見する。家康は19歳になったら天下を秀頼に返すという秀吉との約束は、関ヶ原合戦で起請を秀頼側が破ったから返さないとした。
    この会見は当事者間では決着がつかなかったが、家康が秀頼を臣従化したと見られた。だが、福田氏はそのすぐ後の自筆の書状は、秀頼が家康に送った最初の挑戦状と見る。鷹を送られた厚礼状の形式を踏んでいるが、秀頼は家康に互酬性を欠いた贈答を行い、大阪城に家康が挨拶に来ることを暗に示唆している。家康は、会見後腹心の本多正純に「秀頼は賢き人なり」ともらし、頭脳戦を挑む挑戦状で、豊臣家完全滅亡を決意したと福田氏は考えている。
    秀頼の教養は、当代一流の学者を招聘されて高められ、諸芸能にも堪能で、朝廷の堂上貴族なみであり、「天皇化」する恐れもあった。武術も弓術、槍術、居合術、長刀など「武」も習得していた。大阪夏の陣で秀頼が軟弱で先頭に立ち出陣しなかったといわれるが、福田氏は、様々の史料で、大阪城内の意志決定が分裂していたためとしている。
    秀吉伝来の甲冑と武具をつけ、討死か自害の決意は固まっていたと福田氏はいう。首が見つからなかったのも周到な準備からかもしれない。昭和55年大阪城三の丸の発掘調査で見つかった一体の頭蓋骨と老若二体の遺骨が秀頼という説がある。
    豊臣家の威光と公儀、秀頼の天下人の布石に、老獪で軍事力に優越する家康との最終の攻防が、この本では描かれている。家康の軍事力に敗れる前に、側近の裏切りに秀頼は終わりを迎えた。(吉川弘文館