許光俊『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』

許光俊『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽現象学

  クラシックの標題音楽4曲の演奏を聴き比べた音楽批評の傑作だと思う。吉田秀和以後読んだ音楽評論としては、私は感心した。許氏は聴き比べを、差異と遊ぶというが、相対主義に見えて、理想の音楽演奏を求めていると思われる 。取り上げられた標題音楽(ヴィヴァルディ「四季」スメタナ「わが祖国」ベルリオーズ幻想交響曲」ムソグルスキー「「展覧会の絵」)に関してのの作品論として読んでも面白い。
 許氏の聴き比べは物凄い。例えば「幻想交響曲」では、ショルティアバドマゼール、ミュンフン、ミュンシュブーレーズカラヤンなど35人の指揮する様々な交響楽団のライブや録音を聴き比べている。徹底した印象批評である。毀誉褒貶も明確である。許氏は、この幻想交響曲を「自我の中で展開する私小説」と位置づけ、絶対的自己愛の孤独感と憂欝のなかでの失恋と幻想で、恋人を殺し処刑される夢の音楽としている。
  ブーレーズクリーヴランド交響楽団演奏に対して、音が昔のシンセサイザーのように無機的であり、死んだ音の羅列と厳しい。ケーゲルとドレスデン交響楽団の演奏は憂欝が序奏部からあり、派手にした安っぽい興奮が充満するハリウッド風演奏とは違うと評価している。
  その上で、標題音楽なのに、その情熱と妄想にたいして冷淡な演奏が多く、音響のスペクタクルのように演奏してみたり、自分の気にいった部分を念入りに演奏する指揮者のエゴが強いという。
 「四季」は、精神が欠落した協奏曲のため、演奏家のエゴの痕跡が強く出ると聴き比べていう。バロック音楽である「四季」は描写音楽のため、精神的には空虚である。だから指揮者は空間恐怖を、自己の豊饒な自我で満たそうとする。
  カラヤンは大きな城をこの曲で建てようとし、バーンスタインは元気が良く、何の熟慮も反省も計算もないと許氏は聴く。私が面白かったのは女性バイオリニスト(ムター、キョンファ、ソンネンバーク、千住真理子)の演奏比較で、「女性演奏家は自分の部屋に閉じこもる」という批評だった。
  「展覧会の絵」は、他の曲とちがい展覧会を「歩くという肉体性」と、数々の絵画をみての「内的編集性」をもち、自分の展覧会を作ることに作曲者の意図があるという。許氏がそれに近いとしているのは、ウゴルスキの演奏であり、他の演奏家は自分のエゴを優先し過ぎるとしている。とくにリヒテルなどピアノ演奏は、ピアノの過剰な自立が目立ちすぎ、作曲を殺してしまうと許氏はいう。
その批評には反論もあるだろう。だが、音楽批評としては優れている。(講談社選書メチエ