魚住孝至『宮本武蔵 五輪書』 

宮本武蔵五輪書
魚住孝志『宮本武蔵 五輪書

熊本藩剣術家の晩年の武道書である。遺著といっていい。戦国が終わり、島原の乱も鎮圧され、「平和時代」になり、兵法や武術も実利が薄くなったとき、武道となにかを、専門主義の「職人道」として洗練させようとした。
 「地・水・火・風・空」の仏教の宇宙観の構成になっているが、仏教観は微塵も観じられない。また江戸イデオロギーで在る朱子学も観じられない。武蔵が自分の経験をもとに、プラグマテックに書いた職人道だから、実践的なのだ。
しかし魚住氏がいうように論理一貫性があり、武士の生き方や兵法の在り方が、自己啓発ものやハウツーものように書かれているのが面白い。現代ならスポーツゲームのコーチ指導書としても読める。試合のイメージ・トレーニングの書としても読める。
武士道を死ぬことと、見付けたり」という山本常朝と違い、武蔵は農工商を同等と見るリアリストであり、武士を職人道とみる。
二刀流が有名だが、武士は相手に勝つためには一刀の太刀が重要で、あらゆる場面で勝てるため、二刀の訓練をし、片手で不十分のとき二刀を使うリアルな合理・実戦法に過ぎなかったと魚住氏は指摘している・
武蔵の剣術は「水の巻」の実技によく現れわれてる。「強く」「はやく」太刀を使う批判や構えや型が多いことの否定、特殊な足遣いや目つきの批判、秘伝の否定は「火の巻」で書かれている。「水の巻」では自己を磨く鍛錬の道が書かれている。
武蔵の剣法の実技は、「心持」の重視である。東洋的だ。相手よりも自分の心を自らの真ん中に置く。「心を広く、直にして、きつくひっぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬように」という。相手の視線、体の動き方に柔軟に対応でき、柔軟に対応できる「柔軟な流れ」の剣術なのである。
だから武蔵は「リズム」「拍子」を重用する。「構えありて、構えなし」形の教条の硬直化批判である。武蔵剣術は実践的教法だが、読んでいると芸術の舞台の踊りの流れを私は感じてしまう。「先々を読む」では、相手と戦うとき、先を読む主導権を握ることを説く。相手との関わり合いを冷静に捉える。自分から相手に懸かる「懸の先」、敵が先に懸かってくる「代の先」、双方が掛かり合う「体々の先」に分け、常に自分が「先」を取って勝つよう場面を冷静にみよ、訓練せよと説いている。
最後の「空も巻」では、武蔵の「空」は仏教の「色即是空」と違い、「在る所を知りて、無きところ知る是即空也」である。無きところ、いまだ知ることが出来ないところを「空」と見立てている。
「実の空」とは心のひいきやひずみがないことを、日々の実践で「いまだ空の自分には開かれていない、分からない大きな世界があることをお思いおこし日々修行していくと、魚住氏は解釈している。
「空「を思い開かれる世界が日常の実践として修行として行うというのが、武蔵の世界観だった。だから渡辺一郎氏のようにあまりに抽象的・普遍的で具体性に欠け、心理の面に傾斜しすぎる不満があるという。(魚住孝至『宮本武蔵 五輪書NHK出版、宮本武蔵五輪書』岩浪文庫、渡辺一郎校注』