『窪田空穂歌集』

『窪田空穂歌集』

   明治・大正・昭和と90歳近い生涯を生き、2千首近い短歌を作った窪田空穂は、斎藤茂吉北原白秋のような歌人とは違い、流派もなく庶民としての「心的記録」を短歌で綴った。だが、私は窪田の「挽歌」に凄さを感じる。さらに、短歌だけでなく、近代の長歌にも生命を復活させた稀有の歌人である。
   挽歌の始めは、30歳の時幼子2人を残し急逝した妻を悼む歌からである。「臨終」「子等との別れ」「妻の言葉」「亡妻を思ふ」には、空穂の特徴の長歌が綴られている。そして「短歌」。「逢ふ期なき妻にしあるをそのかみの処女となりて我を恋はしむ」。「人呼ぶと妻が名呼べり幾度をかかる過ちするらむ我は」。
   大正12年の関東大震災。空穂は神田猿楽町に住む行方不明の甥を探し、震災の東京を歩く挽歌。「妻も子も死ねり死ねりとひとりごち火を吐く橋板踏みて男ゆく」。「死ぬる子を箱にをさめて親の名をねんごろに書きて路に棄ててあり」。「川岸にただよいよれる死骸を手もてかき分け水飲む処女」。数多くの震災の空穂の記録的な心の叫びを詠った短歌は、涙なしには読めない。
   詩人・大岡信氏が「日本長歌史上の最高傑作」と激賞するのが、「捕虜の死」である。第二次世界大戦が敗戦に成った時、空穂の二男は満州に出征し、ソ連軍の捕虜になり、シベリア抑留され、イルクーツクにおいて発疹チフスで死亡したと、帰国した戦友に知らされる。
   厳冬のシベリアで、仮収容所の板屋根のある鉄条網のなかで、我が子が高粱の粥しかない食事で飢え、虱の大群に襲われ、発疹チフスで死ぬ。大氷塊をダイナマイトで爆破した穴に千人の兵とともに「家畜にも劣れるさま」で葬られる状況を、綿密な取材で空穂は抑制された怒りを持って長歌で描きだす。
   「いきどほり怒り悲しみ胸にみちみだれにみだれ息をせしめず」。
   「死にし子が形見となりし冬襦袢われこそ著めと今朝を身につく」。
  敗戦後の「無縁仏」という長歌も傑作である。「焼野はらつづくが上に、しろじろと新木の墓標」と長歌に記す。「帰るべき家のあらじと数知らぬ御霊をしのぶ盆の来たれば」。
   80歳を超えた昭和38年にもこう詠う。「国のため死ねる兵が子が末期のこころ親に還りけん」。「死にし子の年を数ふる愚かさをしばしばもしぬ愚かなり親は」。空穂はその4年後に死ぬ。(大岡信編・岩波文庫