長田弘『奇跡』

長田弘『奇跡』

      詩人・長田氏が2015年5月死去した。私は、自分の妻が死んだとき、長田氏の詩「花を持って、会いにゆく」(『詩二つ』)を泣きぬれて読んだ。長田氏の妻瑞枝さんがなくなったのは2009年だった。「どこにもゆかないのだ。いつもここにいる 歩くことはしなくなった」死よりも、自分に残していったたしかな記憶を信じる。シンプルだが無垢の詩だった。
      詩集『奇跡』は、それから4年たった2013年に出された。「奇跡」という詩は「庭の白梅のつぼみが ゆっくりと静かにふくらむと」から始まり、カンツバキ、ボケ、ハナモクレンが歌われ「心に親しい死者たちが 足音も立てずに帰ってくる」と歌う。「ただここに在るだけで、じぶんのすべてを、損なうことなく、 誇ることなく、みずから みごとに生きられるということの、なんという、花の木たちの奇跡。」
      『奇跡』という詩集は、物言わぬものの声、呼びかける声、存在していないものさえ存在して呼びかける詩なのである。この詩集では、ささやかな日々の日常の光景に人生の本質をみようとしている。小さき微笑は奇跡だ。「幼い子は微笑む」は、いい詩だ。幼児の微笑み。人は言葉を覚えれば、幸福を失う。「長じて、人は 質(ただ)さなくなるのか。たとえ幸福を失っても、 人生はなお微笑するに足るだろうかと」
      「花の名を教えてくれた人」では、竜胆の名を教えてくれた人を歌い「花の名には秘密がある。花の名は花の名を教えてくれた人を、けっして忘れさせないのだ」。詩「空色の街をゆく」では、「失ったものの総量が、 人の人生とよばれるものの、 たぶん全部なのではないだろうか。それがこの世の掟だと、 時を共にした人を喪ってしった。死は素(す)なのである。」
      長田氏は、ほんとうに意味があるものは、ありふれた、なんでもないもので、「すべて小さなものは偉大だ」と歌う。(「猫のポブ」)人の一日を支えているのは、大層なものでなく、もっと、ずっと、こまやかなものともいう。(「幸福の感覚」) 
      だが、この詩集は同時に世界旅行でのベルリン詩篇も含み、ナチ時代に死んでいったユダヤ人や、哲学者ベンヤミンなどの挽歌も含まれている。ウイーンでも、ロシアの森でも、韓国の寺でも、死者たちの声を聞き歌う。死者や自然の呼びかける声を詩に、長田氏は書いているのだ。(みすず書房