寺尾隆吉『魔術的リアリズム』

寺尾隆吉『魔術的リアリズム
 20世紀のラテンアメリカ小説を、その技法である魔術的リアリズムで論じた本である。寺尾氏は、20世紀初めにアストゥリアスカルペンティエールを出発点に、ルルフォを経由してガルシア・マルケス、ドノソにより完成した魔術的リアリズムに焦点を合わせている。さらにそれが、イザベル・アジェンデの『精霊の家』以降、21世紀にかけて商業化・娯楽化していったかまで探究している。私は、マルケスの高評価に比べて、アジェンデへの寺尾氏の厳しい批評に少し戸惑ったが。
 魔術的リアリズムについては、厳密な定義は難しい。寺尾氏の見方は二点に絞られている。第一は、正常とされる日常的視点を離れて、異常・非日常視点から「異化」して現実世界を逆照射する。合理的・論理的リアリズムを打破し非合理的想像力が重視される。第二は、この非日常的・非合理性を個人レベルでなく、集団に拡大し共同体を新たに構築し、小説場とする。マルケスの『百年の孤独』のマコンド村のように。寺尾氏の説は、マルケスが頂点を極めることになり、この本でもマルケス論に力が入っている。小説とは、個人的オブセッションを出発点とした虚構世界の構築ということになる。
 寺尾氏が、魔術的リアリズムを社会変革への想像力を根底に秘めているという指摘は、私は面白かった。20世紀南米の政治に出現した権威体制の独裁者を魔術的リアリズムで描いた「独裁者小説」を論じて、独裁者が擬似魔術的リアリズムで政治作品を神話に変えようとするのに対峙して、小説家は小説創造に封じ込めようとする。独裁者は情報をコントロールし、時間を停止し永遠を志向するため「公的歴史」を捏造する。情報操作と歴史操作による「神話化」に対して、小説家は民衆の「声」を魔術化して対抗するというのだ。三大独裁者小説として、マルケス『族長の秋』バストス『至高の我』カルペンティエール『方法再説』が取り上げられている。私も日本の歴史認識慰安婦問題を頭に浮かべながら読んだ。
 魔術的リアリズムは、南米文学だけでなく、中国の莫言ブルガーコフラシュディゴンブローヴィッチギュンター・グラス安部公房にも見られる。さらに世界的文学論として考察されることを望みたいものだ。(水声社