グッドウィン『リンカーン』(その3)

 
 南北戦争は約60万人の戦死者を出している。第二次世界大戦では米兵死者30万人だから、いかに悲惨な内戦だったかがわかる。グットウィン氏の伝記を読むと、リンカーンが無能な将軍を激励するために、死の危険がある前線にたびたび訪れて兵士の歓迎をうけていることがわかる。戦争の恐怖を自身の内部に引き込み、戦場に横たわる死者、負傷兵、捕虜兵、敗北した南部兵の悲痛を自分の者として吸い上げ主観化した。南部の首都リッチモンドが落ちたとき、暗殺のおそれもあったが真っ先に視察している。「自分がおそれることなく国民のなかに入っていくことを知ってもらう」という姿勢は、祖国統一戦争・人民(奴隷)解放戦争の指揮官としての性格を示している。
 リンカーンと陸軍長官スタントンは、ともに人間として大きな喪失を経験しており、二人は死ぬ運命と死について終生思い悩んだとグットウイン氏は書いている。リンカーンが好んだ詩作の多くが、人間のはかない命を主題にしたものだ。スタントンはクエーカー教徒で、若いとき反戦のエッセーを書いた。二人は自分たちの選択が結果的に数十万の若者たちを墓場に送り込んだことにストレスを感じ、リンカーンは、悲哀感により容貌も変わってしまう。
 民主主義の政治家が、人民間の対立を冷静に見極め、距離をとりながらも妥協と和解を推し進めていく中道政治を行なうなかで、奴隷解放のための憲法修正を粘り強く実現していく典型を、リンカーンの政治に見る。他方南部連合戒厳令など戦時専制体制だが、この本は南部側はほとんど書かれていない。
 戦時下なのに、大統領選や閣僚の対立、保守派と急進派の政治的対立が、民主主義の政治原理で行われていて、独裁制や軍人支配にいかないことに、黎明期アメリカの民主主義の健全性がある。リンカーンが議会対策など政治手法の巧妙さをいかに行なったかを、この伝記は描いている。
 リンカーンの戦勝後の南部再建路線の寛容・穏和性は、暗殺によって崩され、憎悪の悪循環に陥らせる。ある「世界の歴史」を読んでいたら、南部占領政策と戦後日本占領政策の類似を指摘していた。本当だろうか。メアリー夫人は暗殺後、精神的にまいり、金銭感覚に異常をきたし、長男に精神病院にいれられている。グッドウィン氏は600人のリンカーンの周辺の登場人物を描きながら、リンカーンを浮き上がらせていく手法を取っていて、大河小説を読むようだった。(中公文庫、下巻、奴隷解放、平岡緑訳)