南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』

南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』
 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』では、キリスト教と民族大移動が滅亡原因としてあげられ、ギボンは2世紀の両アントニウス帝の息子コンモドゥスから衰亡が始まるとした。南川氏は4世紀のコンスタンティヌス大帝から衰退の影が始まったとして、衰亡史を詳細に描いている。5世紀の始めに「帝国」は滅亡したといっていいが、4世紀末から30年であっけなく潰え去ったというのが、南川氏の歴史の見方である。
 ではなぜ帝国は瓦解したのか。南川氏はローマ帝国を地中海帝国としてよりも、内陸の「大河と森の帝国」の面を重視する。ローマの周縁・辺境から見ようとする。そこには近代の「国境」や「民族」といった固定した概念はなく、流動的であいまいな「ゾーン」といった境があった。ゲルマン民族といった固定観念は近代民族主義から使われた考えで、南川氏はゴート族とかアラマンニ族など個別民族しか使っていない。
 ローマ帝国ローマ市民権をもつ人々の合衆国であり、流動的であり、民族には寛大であり、ローマ人としての自己認識があれば、帝国の支配階級にまで登りつめられた。ローマ人対ゲルマン人が、文明対野蛮といった二項対立では捉えられない。帝政初期に中央政府に参加した地方都市や属州出身エリートを「新しいローマ人」といい、3世紀になるとドナウ・バルカン地方の軍人が「第二のローマ人」になり、4世紀にユリアヌス帝が参画させたガリア人など周辺の異民族の軍人・支配層を「第三のローマ人」という。多民族・多文化主義ローマ帝国を存続させてきた。
 南川氏によると、4世紀後半にローマ人のアイデンティティが、民族移動で変質し、共存していた多民族に、ローマ側の差別と排斥の「排他的ローマ主義」が激しく対立し「尊敬されない国家」に成ったことを、衰亡の原因の一つとして強調している。外民族から人材をえてきた帝国が、他者を排斥する偏狭な国家に変質していったことが、アラリックなど周辺民族の攻撃をよんだというのだ。キリスト教の厳格な異端排斥も、底流にはある。こうした見方は最近のローマ史学の見方では重要視されてきていて、興味深い。(岩波新書