中村光夫『風俗小説論』

中村光夫『風俗小説論』



 日本近代文学における特徴である日本的近代リアリズム=私小説の発生、展開、変質を論じた文芸批評の古典である。中村の私小説批判は明解であり、それは小説だけでなく日本の近代批判にまでなっている。だが1950年の本だからフランス自然主義を理想とする近代を基軸にしているため、近代主義的であり、ポストモダンによる批判ではない。小林秀雄私小説論』と並んで、日本近代文学私小説の特異性の批判としては面白い。
20世紀にはいってからの小栗風葉『青春』島崎藤村『破戒』田山花袋『蒲団』といった自然主義リアリズムの発生が論じられ、『破戒』がなぜ『蒲団』に敗れ去り、私小説=心境小説が主流になっていったかが考察されている。中村はいう。ゾラ、フローベルの自然主義は社会と時代を背景にした社会的「事実」を重視したのに、日本版は個人の生活体験と心境に重きを置いた。西欧自然主義はロマン派の個性過信にたいする反動だったが、日本では作家の個性偏重のロマンチックな文学となる。日本では「自然」は「内面の自然」として捉えられ、一切の偏見を去って、自己の生活の事実の検証になり、そのため自己耽溺とナルシズムになる。「自然」は「自我」の代名詞になる。「思想」や「判断」を放棄して「自然」にしたがえば、「主観」は「客観」と一致する。熱烈なナルシズム。文学者は「自然=自我」の修道士になり求道者になる。小説の仮構性は思想性と社会性と不可分だから、想像力による構築が出来なくなる。私小説の「小さな物語」が昭和10年代に崩壊し、新感覚派プロレタリア文学が出てくる。そこに横光利一川端康成武田麟太郎丹羽文雄の「風俗小説」が出現し、「無私の非人間性」と「マゾヒズム的受身性」に変質して崩壊していくかを論じて、この本は終わる。
私はこの本を読み、日本近代がなぜ15年戦争という独善的な、自己ナルシズムの戦争に入って行ったかの時代思潮を、私小説的精神と重ねさせて読んでいた。(講談社文芸文庫